バスツアーの帰り道というものが、私は少し好きである。

行きはまだ皆の声が高く、窓の外を見るより先に土産の話や昼の予定が飛び交っている。けれど帰りは違う。日が傾いて、座席の布にうすい影ができるころになると、車内には疲れた静けさが落ちてくる。前のほうでは誰かが眠り、後ろでは小さな袋の擦れる音がたまにするだけで、ひとりぶんずつの考えが、それぞれの頭のまわりにきれいに戻ってくるのである。

家では家族が待っている。

晩ごはんの時間に遅れないように、と朝も言われたし、帰ったら今日のことを話すのだろうとも思う。土産の包みも膝の上にある。だから私は、ちゃんと戻る側の人間である。どこか遠くへ消えてしまうわけではなく、夜になれば玄関の灯りの下へ帰ることが最初から決まっている。

それなのに、帰りのバスの中にいるあいだだけは、少しだけ一人になれる。

窓に頬を寄せると、外の景色はもう観光地ではなくなっていて、見知らぬ店や信号や低い建物が、暗くなる手前の色で流れていく。誰のものでもない時間が、道路の上をまっすぐ伸びていて、そのあいだだけは、家族の中の役目からも、今日の会話からも、うまく外れていられる気がする。

私はそういう時間に、いちばん静かになる。

話しかけられれば答えるし、休憩所で買った甘い菓子もちゃんと持っている。けれど胸のあたりには、家へ戻るまでしか続かない、細い自由のようなものが一本だけ残る。それはべつに後ろめたいものではない。ただ、誰にも見せないまま、ひとりで持っていたい種類の時間である。

きのうの帰りもそうだった。

車内は暗く、ガイドの声ももうなく、窓にはときどき自分の顔が重なっていた。私はその顔をぼんやり見ながら、もうすぐ家だと思っていた。待っている人がいることに安心していながら、その一方で、このままあと二十分でも三十分でも、誰にも呼ばれずに座っていたいとも思っていた。

そのとき、前のほうの座席から、子どもの声がひとつした。

「まだ帰らないの?」

誰に向けた声だったのかはわからない。母親に言ったのかもしれないし、眠っている父親の腕を揺すったのかもしれない。けれど、その短い声だけが、暗い車内をまっすぐ後ろまで通ってきて、私はふいに、自分ももうだいぶ長いこと帰っていないような気がした。

もちろん、そんなことはない。

バスはちゃんと家のある方角へ向かっていたし、土産の袋も膝の上にある。スマートフォンを見れば、家族からの短い連絡も届いていた。それでも窓に映る自分の顔だけが、どこへ戻る途中なのか少し決めかねているように見えたのである。

やがて街の明かりが増え、車内の誰かが荷物を持ち直しはじめた。あの細い自由の時間も、そこで終わるはずだった。

だが、降車場所について立ち上がるとき、窓ガラスに残っていた自分の顔は、最後までこちらを向かなかった。