連休の朝、通りの人の歩き方が、ふだんと違っている。
普段なら、見慣れた人が見慣れた歩幅でこの時間帯を抜けていく。郵便屋、犬を連れた老人、塾の鞄を背負った子どもたち。それぞれがこの通りの寸法を身体で覚えていて、信号の手前で止まる位置も、コンビニの横を曲がる角度も、ほとんど揃っている。
ところがゴールデンウィークに入ってから、その揃いが少しだけ崩れている。
走る側からは、まずキャリーケースの車輪の音で気がつく。アスファルトの継ぎ目を超えるたびに小さく跳ねる音が、ふだんはない時間帯にいくつも重なっている。次に、すれ違う人の視線が、ふだんより少し上を向いていると気づく。電線、看板、二階のベランダ。住んでいる人間がもう見ない場所を、まだ見られる場所として見ている目たちである。
街は、ちゃんと明るい。
空はからりと晴れて、街路樹の若葉も出揃って、近所の喫茶店からはコーヒーの匂いがいつもより少し早く流れてくる。観光客らしい人たちはなごやかにお喋りしていて、車道をのんびり横切る家族連れもどこか機嫌がいい。光だけ見れば、これは紛れもない祝日の朝の景色である。
ただ、走る私の側では、その明るさの裏で、もうひとつの動きが見えてしまう。
普段この時間に通りにいたはずの人たちが、いない。歩道の端で煙草を吸っていた配達員も、八時少し前に薬局のシャッターを叩いていた老婦人も、その姿が見当たらない。消えたわけではないのだろう。別の場所にいるか、家にいるか、起きてもまだ通りに出てきていないだけだ。けれど通りの上には、その人たちの分の空白がそのまま残っていて、その空白を、見慣れない歩き方の人たちが滑らかに上書きしていく。
街は、いつもの住人から少しだけ貸し出されているのである。
ふだんは気づかない契約のようなものを、連休の朝になって初めて見ている気がした。土地は住んでいる人だけのものではなく、遠くから来た人にも、その日その時間だけ、明るい顔で振る舞ってみせる。住人がやさしいから、というより、街のほうに、そういう気前の良さの仕組みが組まれている。
明るさは嘘ではない。
通りは整い、空気は澄み、すれ違う声は楽しげで、私もすれ違いざまに一度、観光客らしい男性に駅までの道を聞かれた。機嫌よく方向だけ伝えると、彼は嬉しそうに頭を下げ、「いい街ですね」と短く言って駅のほうへ歩いていった。
その言葉が、しばらく私の中に残った。
たしかに私の街はいい街なのかもしれない。ただ、いい、と感じてもらえているのは、街が連休の側に少しだけ寄せている顔である。普段の朝のシャッター音、配達員の咳払い、薬局の老婦人のぶつぶつした声まで含んだ街を、彼はまだ知らない。
走り終えて家に戻り、シャワーを浴びて窓を開けると、通りはもう、いつもの音に戻りはじめていた。子どもの自転車のブレーキ、近所の犬の声、ゴミ収集車の遠いエンジン。私の側からは、その音のほうがやはりほっとする。
連休のあいだ、街はいつもよりほんの少し明るく振る舞う。
その明るさは嘘ではないが、住んでいる側からすると、いつ返してもらえるのかが少し気にかかるくらいの貸し方ではある。