エアコンは、ずいぶん賢くなった。

昔のものは、冷やしすぎたり、音が大きかったり、風がまっすぐ首筋に当たって不機嫌だったりした。けれど今の機械は、部屋の広さも、人の位置も、湿度も、だいたいこちらより先に読んでいる。風はやわらかく回り、冷えすぎる前に少し引き、暑さが戻る前にまた整える。こちらが快適だと感じるころには、もう向こうの調整は終わっているのである。

ありがたいことだと思う。

夏の夜に眠りやすくなったし、昼の仕事も前より身体が重くならない。湿気の多い日でも、部屋の中だけは、きれいに季節から守られている。人はこうやって少しずつ住みやすくしてきたのだろうし、それもまた進化のひとつなのだろう。

ただ、そのたびに、別のことも考える。

快適さの裏で、人は何を手放しているのだろうか。

暑さ寒さに耐える力、というほど大げさでなくてもよい。たとえば、じっと汗が引くのを待つ時間だとか、窓を少し開けて風の気配を読む勘だとか、夕方の空気の変わり方で夜の暑さを想像するような、小さな感覚である。機械が先に整えてくれるようになると、そういうものをいちいち使わなくて済む。使わなければ、たぶん少しずつ鈍っていく。

それはヒトの進化なのかもしれないし、退化なのかもしれない。

どちらでも同じことか、とも思う。身体の代わりに機械へ預けたものが増えるだけで、暮らしはちゃんと続いていくのだから。けれど、夜中にふと冷えすぎて目がさめると、私はときどき、自分が機械に守られているのではなく、機械に合わせて眠っているような気持ちになる。

昨夜もそうだった。

部屋は静かで、設定温度も適正なはずだった。風は直接当たっていない。なのに、指先だけが妙に冷えていた。私は布団を少し引き寄せ、暗い天井を見ながら、昔の夏の夜のことを思い出した。扇風機の首が左右へ振れるたびに、風の当たる時間と外れる時間があって、そのむらの中で眠っていたころのことである。あの不均一さは不便だったが、少なくとも身体はこちらの側にあった。

今は部屋全体が均等に整いすぎていて、こちらの身体のほうが、どこで暑がり、どこで寒がるのか、自分でも少しわかりにくくなっている。

エアコンの進化は、たしかに人を快適にした。

けれど同時に、人の身体から、季節の細かな凹凸を読む役目を少しずつ取り上げているのかもしれない。もしそうなら、ヒトはこれからも進化していくのではなく、感じることの一部を、静かに外部へ移していくのだろう。

明け方、冷房がいちど止まり、部屋の空気がわずかにゆるんだ。

その瞬間だけ、私はようやく自分の肌が夏を覚えていることに気づいた。