その動画には、最初から日本語字幕がついていた。

外国の古い街路を映しただけの、べつに変わったところもない短い映像で、画面の隅には小さく自動翻訳の印が出ていた。私は音を消し、字幕だけを追って見ていたのだが、五、六行ほど読んだところで、妙なことに気づいた。

字幕が、声より少し遅いのではない。

景色より遅いのである。

石畳の道を、黒い外套の男がひとり、こちらへ向かって歩いてくる。画面では、もう男は通りすぎている。ところが字幕には、そのあとから、まるで追いつこうとでもするように、こう出た。

「いま、うしろを見たね」

私はそこで、ようやく音をつけた。だが、聞こえてくるのは風の音ばかりで、人の声などどこにもない。にもかかわらず、字幕だけが、ひとつずつ、おそろしく正確な間をおいて、暗い水面に浮かぶ紙片のようにあらわれてくる。

「まだ気づかない」

「この窓は、きみのほうを向いている」

べつにこわい言葉ではない。けれど、そのどれもが、画面の中の人物ではなく、どうもこちらに向かって言われているように思われた。

私は気味が悪くなって動画を止めた。すると、止まった画面の上に、最後の一行だけが、少し遅れてしずかに出た。

「止めても、おなじことだよ」

それ以来、字幕つきの動画を見るとき、私はいつも最初に、画面の隅の自動翻訳の印をたしかめることにしている。