花火を見るとき、私はいつも、赤い火から先に見てしまう。

青や銀は夜に溶けるようで、金はにぎやかに散っていく。けれど赤だけは、空の上でいちどきちんと咲く。丸く開いたあと、しばらく形を保って、それから遅れて消える。その順番が、どうにも花に似ているのである。遠くの河川敷から上がる小さな花火でも、赤だけは夜空に芯を持って残る。

きれいだと思う。

思うのだが、そのたびに、少しよくない連想も一緒に出てくる。

爆弾もまた、開くものだからである。

もちろん、空に上がる花火と、地上で破裂するものを同じにしてはいけない。そんなことはわかっている。音も、目的も、そのあとの沈黙もまるで違う。それでも、赤いものが一瞬でひらくという一点だけで、私の頭の中では二つが、ほんの少しだけ近づいてしまう。

子どものころ、夏祭りの帰り道で、父が花火を指して、よく咲いたな、と言ったことがある。

私はその言い方が好きだった。打ち上がるでも、破裂するでもなく、咲いた、である。空の上の火に、いちど花の役目を与えてしまえば、怖さはかなり減る。音も、煙も、落ちてくる灰も、ただ夏の余りのように思える。しばらく私は、その言い方だけで花火を見ていた。

けれど、年を取ると、ものには別の名前がいくつもあることを知る。

咲くものは、ひらくものでもある。ひらくものは、裂けるものでもある。夜空の上でまるく整って見える赤も、べつの場所では、まったく別の意味を持つかもしれない。そう思うようになってから、花火の赤は前より少しだけ静かに見えるようになった。

今夜も、遠くで花火がひとつ上がった。

音は遅れて届いた。赤はきれいに開き、しばらくそのまま空の中央に留まり、それからゆっくりほどけていった。私は窓辺に立ったまま、その残り方を見ていた。花のようだと思う気持ちと、そう呼ぶには少し強すぎる火だと思う気持ちとが、胸の中で並んでいた。

最後に消えたのも、やはり赤だった。

消えたあとも、まぶたの裏にだけ、もう一度小さく咲いた。