湿度の高い日は、台風が来なくても、もう何か来るような空気になる。
南の島では、それに少し慣れている。洗濯物の乾き方が鈍くなり、床の冷たさが妙に肌へつくころには、風向きがまだ穏やかでも、身体のほうが先に天気の変化を知っている。ニュースが台風の進路をはっきり言う前から、店先の鉢がひとつ奥へ移され、近所の人がベランダを見上げる。そういう気配は、もう特別なものではない。
なれっこなのである。
だからといって、好きなわけではない。
私は窓を閉め、カーテンを少しだけ厚いほうへ寄せる。飲み水を確かめ、充電を見て、なんとなく部屋の中を片づける。台風の前には、しなくていいことまで少ししてしまう。どうせ外へ出にくくなるのだから、家にいる支度を早めに始めておくのである。
おうち時間、という言い方がある。
あの言葉はやわらかすぎる、と私は毎回思う。晴れた日の休日に部屋へいるのと、台風の前に部屋へいるのとでは、同じ家の中でもまるで違う。前者は自分で選んだ時間だが、後者は外のほうから少しずつ押し込まれてくる時間である。静かではあるが、どこかに逃げ場の形が残っている。
昼を過ぎたころ、雨はまだ来ていないのに、窓の外だけが先に暗くなった。
私は湯を沸かし、読みかけの本を開いたが、二頁ほどで目が止まった。部屋の中は安全なはずなのに、壁や机やカップの白さまで、湿気を吸って少し重く見える。手のひらだけが妙にぺたつき、時計の針はちゃんと動いているのに、午後の長さだけが別の測り方をしているように感じる。
それでも私は、台風に慣れているのだと思う。
慣れているから、こういう曖昧な明るさや、雨の来る前の沈黙を見ても騒がない。慣れているから、冷蔵庫の開け方ひとつ変えずにいられるし、外の植木が少し倒れても、あとで直せばいいと考える。慣れているというのは、怖がらないことではなく、怖さの置き場所を知っていることなのかもしれない。
夕方になるころ、ようやく最初の雨音がした。
私は本を閉じて、しばらくその音だけを聞いていた。屋根を打つ前に、空気のほうが先に湿りを深くしたような気がしたからである。慣れたはずの島の台風でも、家の中に閉じる時間だけは、いつも少しだけよそよそしい。
夜、電気を消したあとも、部屋の壁だけがまだ明るさを覚えているように見えた。