税金というものは、取られるときだけ妙にはっきり見える。
所得税、住民税、そのほか名前の長いもの短いもの。引かれた額は紙の上に黒く並び、こちらの暮らしから確実に切り取られたことだけは、いやでもよくわかる。数字というものは冷たいくせに、そのときだけ妙に力がある。何に使われるかを説明されるより先に、まず減ったぶんだけが、こちらの身体へ来るのである。
けれど、使われ方は見えにくい。
いや、まったく見えないわけではない。道路もある、信号もある、病院も学校も、ごみの回収も、夜になれば街灯も点く。国だの自治体だのというものが、何もしていないのではないのだろう。それは頭ではわかっている。わかっているのだが、差し引かれるときの鮮やかさに比べると、戻ってくるものの輪郭はどうにもぼんやりしている。
私はときどき、そのぼんやりに腹が立つ。
払うことそのものが惜しいのではない。必要なものはあるし、みんなで負担するしかない部分もあるのだろう。ただ、これだけ取られて、いまどこへ流れているのか、誰の明日にどれほど届いているのか、その道筋があまりにも霞んで見えるのである。帳簿には行き先があるはずなのに、暮らしの中では、その宛先だけがうすい。
とくに気になるのは、子どもたちや若い人のことである。
未来という言葉はよく聞く。国の未来、地域の未来、次の世代の未来。けれど、その「未来」の当人たちが、ほんとうに前へ押し出されているのかと考えると、急に心もとない。学ぶための場所、休むための時間、失敗してもやり直せる余白、何かを始めるための小さな支え。そういうものに、ちゃんと金と手間が使われているのだろうか、と私は思う。
若い者に投資する、という言い方は、どこか商売の匂いがして好きになれない。
けれど、ほかに言葉が見つからない。放っておいても育つだろう、気合いがあれば何とかなるだろう、そういう時代でもないように見えるからである。いまの若い人たちは、こちらが若かったころより、たぶん先の見えないものをたくさん引き受けている。物価、仕事、住まい、介護、将来。何かを始める前から、心配の項目だけが先に並んでいるような顔を、ときどき街で見かける。
子どもたちにしても同じである。
明るくて、元気で、可能性がある、という言い方はたやすい。だが本当にそう思っているなら、大人たちはその明るさを口で褒めるだけでなく、ちゃんと守る金の使い方をしているのか。教室の空気、給食の質、図書館の棚、放課後の居場所、親が少し息をつける余裕。未来というものは、そんな地味なところからしか育たないのではないかと、私はこのごろよく思う。
老若男女を問わず、平等に思われているのか、ということも考える。
国というものに心があるのかどうか、そんなことは知らない。けれど、もし「思われている」という感覚があるとすれば、それはきっと、困ったときに切り捨てられないこと、急いでいない人間にも席が残っていること、若い者にも年寄りにも、ちゃんと明日の勘定が配られていることなのだろう。ところが実際には、声の大きいところばかり先に拾われ、静かに困っている者ほど、後ろへ薄く押しやられているように見えることがある。
昨夜、封筒から税の通知を出して机に置いた。
白い紙はまっすぐで、数字は容赦がなかった。私はしばらくそれを眺めて、それから窓の外を見た。もう暗く、向かいの建物の小さな明かりだけがいくつか浮いている。そのどこかの部屋で、子どもが宿題をしているかもしれず、若い人が就職先のことを考えているかもしれず、年老いた人が薬の時間を気にしているかもしれない。税金というものは、本来、そういう見えない夜のあちこちへ届くために集められているはずなのだ。
そう思うと、腹立ちとは少し違う気持ちになる。
知りたい、と思うのである。いま引かれたこの金が、どこへ行くのか。何を明るくし、何を守り、誰の明日を少しでも軽くするのか。もしその道筋が、もっとはっきり見えたなら、私たちは取られる痛みだけでなく、渡している意味のほうも、もう少し信じられるのではないか。
税金は、取られるときだけ見えるものであってはいけないのだろう。
子どもたちの未来に、若い人の始まりに、年をとった人の静かな暮らしに、そしていま働いている者の今日にも、ちゃんと届いていると感じられてこそ、ようやく勘定は閉じる。
紙の上の数字には、いつも宛先が書かれていない。
だから私は、あの通知を見るたび、つい思ってしまう。これはほんとうに、みんなのほうへ向かっている金なのだろうか、と。