このごろ、私のPCを動かしているのが誰なのか、ときどきわからなくなる。

べつに故障したわけではない。画面が勝手に乱れたり、カーソルが暴れたりするのではない。もっと静かなことである。指示をひとつ渡すと、AIがその先を引き受け、アプリを開き、必要な箇所を探し、ファイルを触り、作業を進めていく。こちらは机の前にちゃんと座っているのに、実際に操作しているのは私ではない。

未来だ、と思う。

昔なら映画か雑誌の特集でしか見なかったものが、いま自分の画面の中で起きている。人がキーボードを叩く代わりに、機械がこちらの代行者として働いている。待ち時間は減り、探す手間も減り、いくつかの面倒はたしかに軽くなる。便利という言葉で言い切ってしまえば、それで済むのかもしれない。

けれど、済まないのである。

AIがアプリを渡り歩いているのを見ていると、私はときどき、自分の机にもう一本、見えない腕が伸びてきたような気分になる。メールの宛先を確認し、ファイルの中身を覗き、ブラウザのタブを切り替え、私なら少しためらう場所へも迷いなく入っていく。その手際は見事なのだが、見事であるほど、では私は何をしているのだろうと思ってしまう。

操作しているのは私ではない。

私は命じているだけで、実際に押し、開き、選び、書き換えているのは向こうである。そうなると、「作業をした」のは誰なのかが、急に曖昧になる。成果物はたしかに目の前にある。進んだ仕事もある。けれど、その進み方には、自分の指先の記憶が残っていない。階段を上がったはずなのに、足の筋肉だけがそれを覚えていないような妙な感じである。

昨夜も、画面の中でいくつかの窓が順に開き、閉じた。

私はそのたび、少し遅れて内容を追いかけていた。これは確認、これは修正、これは保存。向こうは私の意図を先回りしているのに、私は自分の仕事のあとを、字幕みたいに読んでいる。未来というのは、もっと胸のすくものだと思っていた。けれど実際には、感心と薄い不安とが、きれいに分かれず一緒に来る。

これはいったい何なのだろう。

道具が賢くなっただけなのか。秘書を得たようなものなのか。それとも、自分の仕事の輪郭そのものが、少しずつ外へ染み出しているのか。大げさな話ではない。明日も私はこのPCを開くだろうし、またAIに作業を頼むだろう。便利だからである。もう後戻りする気もあまりない。

それでも、ときどき思う。

未来とは、ただ新しいことができるようになることではなく、自分が何を自分の手でやっているのかを、少し見失うことでもあるのかもしれない。

画面の上では、きょうも私の代わりに、よく働く見えない手が動いている。