戻らない季節、というものがある。

春がまた来た、夏がまた来た、そういう言い方はたしかに正しい。だが、ほんとうは同じ季節など二度と来ていないのだろうと思う。あの年の春は、もうない。あの風のぬるさ、あの帰り道の明るさ、あのころの自分が受け取っていた空の色は、もうどこにも戻ってこない。季節は巡るのではなく、似た顔をして通り過ぎていくだけなのかもしれない。

過去は遠い。

いや、遠いという言い方でもまだ足りない。遠い遠い、と思ってもなお届かないくらい遠い。振り返れば見えるようで、実際にはもう触れられない。あのときの駅の匂いも、誰かの声の高さも、少しだけ信じていた未来の輪郭も、思い出そうとするたび、こちらの手の中で別のものへ変わっていく。過ぎた時間というのは、近くに残っているように見えて、ほんとうはひどく遠いところへ沈んでいる。

それでも私は、ときどきその過去を数えなおす。

いまの自分を形づくっているものは何だったのかを、ひとつずつ見直すためである。あの失敗、あの沈黙、あの言いそびれた言葉、あの季節に置き去りにした気分。そういうものが、いまのこちらにどうつながっているのかを確かめたくなる。まるで遅い答え合わせみたいに、昔の断片をいまの光の下へ並べてみるのである。

答え合わせ、と言っても、正解があるわけではない。

そこが少し厄介である。これが原因だった、これが分岐点だった、これでよかったのだ、と、きれいに一本の線で引けるものは少ない。むしろ、あれもこれも少しずつ混ざって今になっている。うまく行かなかったことも、思いがけず守られたことも、気づかないうちに身についた癖も、ぜんぶが細い糸みたいに絡まり合って、いまの輪郭になっている。

だから私は、日々の中で小さな照合をしてしまう。

あのとき腹を立てたのは、こういうことだったのか。あの季節が忘れられないのは、この感触がまだ残っているからか。昔の自分が怖がっていたものを、いまも同じように避けているのか。あるいは、もう平気なふりを覚えただけなのか。そういう問いを、生活の途中で何度も開く。茶をいれながら、歩きながら、眠る前の暗い天井を見ながら、答えともつかないものをひとつずつ拾う。

先日、ふいに古い通りのことを思い出した。

もう何年も歩いていない、見慣れたはずの道である。そこを通っていたころの私は、何を考えていたのだったか。急いでいたのか、何かを待っていたのか、ただ早く家へ帰りたかったのか。その道そのものより、そこを歩いていた自分の気配のほうが、妙に遠かった。私はもう、その人間ではない。だが、その人間がいなければ、いまの私はここにいない。

そう思うと、いまというものも少し頼りなく見えてくる。

現在は完成形ではなく、途中でしかないのだろう。こちらがどれだけ丁寧に答え合わせをしても、それで全部が片づくわけではない。過去をいくら見直しても、その先に来る時間がどんな顔をしているかまではわからないからである。

そしてたぶん、そこがいちばん大事なのだとも思う。

誰にも、私にすらわからない時が、まだこの先に刻まれていく。どういう季節が来て、何を失い、何を得て、何をようやく理解するのか。いまはまだ知らない。その未知の部分があるからこそ、答え合わせはいつも途中で終わる。終わるからこそ、また次の日に持ち越される。

戻らない季節は、ただ失われたものではないのかもしれない。

それは、いまのこちらを作るために沈んでいった時間でもある。そして、過去が完全には戻らないように、未来もまた完全には読めない。私はそのあいだで、今日もまた、ひとつかふたつ、自分の輪郭を確かめる。

それが何のためかは、まだうまく言えない。

けれど、遠すぎる過去をときどき振り返りながら、いまを形づくるものをひとつずつ照合していく、その手つきの先でしか、たぶん次の時間は生まれてこないのだろう。

誰にもわからない時が来る。

私にすらわからない時が、静かに刻まれていく。

そのことだけは、どれだけ答え合わせを重ねても、最後まで少しあたらしい。