このごろ、他人の行動が妙によく目につく。

別に見張っているわけではない。好きこのんで人を観察しているのでもない。むしろ逆で、放っておきたいのに、勝手に入ってきてしまうのである。向こうの席の足の揺れ、レジ前で財布を探す手つき、道の端で急に立ち止まる人、スマートフォンを見ながら歩く首の角度。そんなものまで拾ってしまう自分に、まず少し疲れる。

落ち着かない気持ちというのは、たいてい静かに始まる。

胸がどきどきするほどではない。ただ、どこか身体の内側にうすいざわつきがある。そのざわつきがある日は、目がひとつの場所に長くとどまらない。何かを読んでいても、すぐ横を誰かが通るだけで意識がそちらへ行く。考えごとをしていても、遠くで椅子の脚が鳴ると、もうその音に気を取られる。こちらが世界を見るというより、世界のほうが勝手にこちらへ入りこんでくる感じである。

いろんなものが目につく、というのは、便利な能力のようにも聞こえる。

だが実際には、あまりありがたいものではない。細かい変化にすぐ気づくということは、そのぶん不要なものまで受け取るということだからだ。人の咳払い、袋のこすれる音、半歩だけずれた並び方、少し強すぎる笑い声。どれも生活の中では取るに足らないことのはずなのに、その日はなぜかいちいち意味ありげに見える。

先日、喫茶店の隅で原稿を読んでいた。

静かな店で、午後の光がテーブルの上へ斜めに落ちていた。悪くない時間のはずだった。ところが入口のベルが鳴るたび、私は顔を上げた。店員がグラスを置くたび、その置き方の硬さが気になる。隣の客が砂糖を二本入れたことまで、なぜか頭のどこかへ残る。原稿の内容は少しも進まないのに、店の中のどうでもいいことばかりが、きれいに並んで蓄積されていくのである。

ああいうとき、自分の輪郭までうすくなる気がする。

こちらが何を考えていたのか、何に集中しようとしていたのか、その芯がすぐぼやけるからだ。人の動き、物音、視線、空気の変わり方。そういうものにひとつずつ小さく反応しているうちに、自分の内側に置いていたはずのものが、少しずつ後ろへ押しやられていく。

私は昔、こういうことを気配りだと思っていた。

よく気がつくのは悪いことではない。人の様子に敏いのは、むしろ長所なのかもしれない。そう思っていたのである。けれど、気づくことと引っぱられることは、やはり別なのだろう。こちらが選んで見るのではなく、勝手に目を持っていかれるようになったら、それはもう気配りではなく、落ち着かなさのほうに近い。

昨夜、窓の外で誰かが小さく笑った。

たぶん通りすがりの声である。すぐ消えたし、内容も聞こえなかった。けれど私は、その一瞬の笑い方から、知らない相手の機嫌まで想像していた。楽しそうだとか、少し酔っているのかもしれないとか、連れがいたのだろうとか。そんなことは、別に何ひとつ必要のない想像である。必要がないのに、頭のほうが勝手に拾ってしまう。

他人の行動が気になりすぎる日は、世界が少し近すぎるのかもしれない。

音も、視線も、仕草も、本来より半歩ぶんこちらへ寄って見える。その近さのせいで、私はしばしば、自分の考えを置く場所を見失う。

けれど、まったく救いがないわけでもない。

そういう日には、こちらもまた、余計なものに引っぱられていると気づけるからである。いま気が散っているのだ、と名前をつけるだけで、少しだけ距離が戻ることがある。向こうの足音は向こうのもの、隣の咳払いは隣のもの、こちらの一日はそれとは別に進んでよいのだと、ようやく思い出せる。

それでも今日は、まだ少し目が散る。

窓の外の動く影、遠くの車の止まり方、廊下を渡る足音。どれも放っておけばよいのに、つい拾ってしまう。けれど、そのたびに私はひとつずつ、自分の視線をこちらへ戻すしかないのだろう。

落ち着かない気持ちというのは、たぶん、外の騒がしさだけでできているのではない。

こちらの中に、世界を少し近く受けすぎる日がある。その日は、目につくものが多すぎて、心だけがひどく忙しい。