このごろ、アイドルが多すぎると思う。

多すぎる、というのは悪口ではない。ほんとうに乱立しているのである。画面を開けば新しい顔がいて、知らない名前のグループがいて、少し目を離すとまた別の誰かがもう光の当たる場所へ並んでいる。町の看板、動画の切り抜き、配信の告知、駅前の巨大な顔。昔も芸能人は多かったのだろうが、いまは増え方そのものが少し違う。きらきらしたものが、以前よりずっと近い距離で、しかも絶え間なく補充されていく。

男は、たぶん男アイドルにあまり興味がない。

少なくとも私はそうである。いや、興味がないと言い切るのも少し違う。見てしまう。腹も立つ。妙に気になる。気になるということは、やはり見ているのだろう。だが、憧れとして見ているのではない。応援でもない。あの顔、あの声、あの身ぶり、あの照明の中で許されている存在感を、どこか別の感情で見ている。

女性はどうなのだろう、と考えかけて、そこでやめる。

正直に言えば、その先は私の知ったことではない。女性アイドルを女性がどう見ているのか、男アイドルをどう受け取っているのか、そのあたりを丁寧に考える資格が自分にあるとも思わない。私にわかるのは、こちら側の薄暗い客席で、男が男アイドルを眺めるとき、その視線の中には、たいてい少し濁ったものが混じる、ということだけである。

なれなかった男の妬みだろう、と言う人はいるだろう。

その通りである。

そこで否定してもしかたがない。妬みはたしかにある。あんなふうに人の目を集められること。顔や声や身体ひとつで、他人の時間をこちらへ向けさせること。好きだと言われ、追われ、記号になり、しかもその記号を自分の名として持てること。あれを妬まずにいられるほど、私はできた人間ではない。

ただ、妬みを口にすると、すぐにこう言われることもある。

向こうだって大変だ、努力している、見えない苦労がある、簡単になれたわけではない、と。

もちろんそうだろう。

レッスンもある、節制もある、競争もある、人気の波もある、年齢の壁もある。商品でありながら人間でいなければならない、あの奇妙な仕事が楽なはずはない。だが、そこでいつも少し引っかかる。大変なのは、みんな一緒ではないか、と思ってしまうのである。

こちらだってべつに、のんびり生きているわけではない。

金に追われ、時間に追われ、体調に気を配り、先の見えない仕事を抱え、今日をどうにか渡している。誰にも歓声をもらえぬまま、拍手のない場所で、同じように消耗している者はいくらでもいる。だから、あちらの苦労を認めたうえでなお、苦労しているから妬むなと言われると、少し話がずれる気がする。苦労は免罪符ではない。光っていることと、苦労していることは、べつべつに成立する。

私はたぶん、努力しているアイドルを妬んでいるのではない。

努力の果てに、ちゃんと光の当たる場所を得ていることを妬んでいるのだと思う。こちらは同じようにくたびれても、照明のひとつも来ない。来ないまま歳だけ重なる。そういう者にとって、舞台の上の人間は、ただ眩しいだけでなく、ひどく腹立たしいのである。

先日、短い動画の中で、若い男のアイドルがひとり笑っていた。

作りものの笑顔かもしれない。事務所の指示どおりの角度かもしれない。けれど、その数秒のために、こちらはきちんと足を止めてしまった。嫌いなら見なければいいのに、見てしまう。見て、少し苛立ち、少し感心し、最後にはひどく古い傷を指で押されたみたいな気分になる。

ああ、私はこれからも妬むのだろうと思った。

妬んで、追いかけて、また妬む。

やめられないのは、向こうがただ嫌いなのではないからだ。嫌いなら、もう見ない。だが実際には、見てしまう。新しい顔が出れば確かめる。どういう声で、どういう目をして、どういうふうにこちらの時間を奪うのかを見に行く。それは半分は敵意で、半分はたぶん、こちらが持ちえなかったものへの執着である。

アイドル乱立の時代というのは、つまり妬みの供給が止まらない時代でもあるのかもしれない。

次から次へと、妬むべき顔が補充される。こちらの人生には何の得もない。なのに私は、また見てしまうだろう。そしてそのたび、なれなかった側の男として、少し苦く笑うのだと思う。

それでも、客席を立つ気はない。

妬み続けることも、追い続けることも、案外似ている。どちらも、まだ目を離していないということだからである。