大きな音を立てる人というのは、ときどき機嫌を音量で言う。
言葉で怒る前に、まず引き戸が強く鳴る。コップが少し乱暴に置かれる。椅子の脚が床をひっかく。そういう音がひととおり部屋を回ったあとで、ようやく本人の口が開く。つまり、もうその時点で、こちらは何を言われるかの半分くらいを聞かされているのである。
うちにも、そういう人がいた。
父である。ふだんは静かな人だった。必要なことしか言わず、機嫌のよいときでさえ、笑い声はあまり外へこぼさなかった。だから、音が先に大きくなる日だけ、家の空気はすぐ変わった。玄関の閉まる音ひとつで、今日はだめだ、とわかる。私は二階にいても、その日一日のだいたいの重さを知ることができた。
不思議なもので、怒鳴り声より先に、足音のほうがこわかった。
廊下を渡ってくる足の速さ、襖の開け方、新聞を置く手つき。どれもこちらへ向かってくるようで、まだ何も言われていないのに、もう何か悪いことをした気持ちになる。大きな音というものは、耳より先に姿勢を曲げさせるのだと思う。
そのあとに来るのは、たいてい小言である。
靴を揃えろ、電気を消せ、返事が遅い、そんな食べ方をするな、何度言わせる。内容だけ見れば、どれももっともなことばかりだった。まちがっているとは言えない。だからこちらも、言い返す場所がない。ただ、その正しさの上に、さっきまでの大きな音がうすく被さっているせいで、小言はいつも必要以上に重くなった。
私は長いあいだ、あれを説教だと思っていた。
けれどこのごろは、少し違う気もしている。あれは注意や指導というより、機嫌の置き場所だったのかもしれない。外でうまく行かなかったこと、疲れたこと、思うようにならなかったこと、そういうものが家までついてきて、言葉になる前にまず音になっていたのではないか。引き戸やコップや椅子が、最初の犠牲だったのである。
先日、台所で皿を洗っていると、自分の手もとから少し強い音がした。
皿を流しへ戻したつもりが、思ったより硬く当たったのである。べつに怒ってはいなかった。少なくとも、その瞬間まではそう思っていた。けれど、音が鳴ったあとで、自分がその日ずっといら立っていたことに気づいた。返事のないメール、進まない用事、細かい予定のずれ。胸のあたりにうすく溜まっていたものが、先に音になって出たのだと、そのとき初めてわかった。
そのあとで私は、ひどく嫌な気分になった。
音はすぐ消える。だが、聞いた者の身体には少し残る。私は子どものころ、それを何度も知ったはずである。声に出さなくても、機嫌は伝わる。そして伝わるものほど、言葉より始末が悪い。
小言というのも、もしかすると似たようなものかもしれない。
正しさをまとっているぶんだけ、よけいに厄介である。相手のためだと言いながら、自分の不機嫌の置き場にもなってしまう。だから聞く側は、内容だけではなく、その裏にくっついた機嫌まで一緒に引き受けることになる。
昨夜、隣の家で何か大きなものが倒れる音がした。
つづいて、低い声で誰かが何か言った。言葉までは聞き取れない。けれど、そのあとしばらく、二階の窓ガラスがひどく薄く思えた。見えない家の中で、また音から先に始まる会話があるのだろうと想像できたからである。
大きな音は、気分をアピールする。
小言は、それに遅れて意味をつける。
そして聞かされるほうは、意味より先に、もう気分のほうを受け取ってしまっている。
だから私はこのごろ、少し大きな音を立てたとき、自分でぎょっとする。
それは物が鳴ったのではなく、まだ口にしていない機嫌が、先に部屋へ出ていった音だからである。