胸が高鳴るとき、私はまず自分の声のことを考える。

ちゃんと出るだろうか、ではない。出たその声が、他人の耳にどう届くのか、ということである。強すぎないか、弱すぎないか、気取って聞こえないか、頼りなく思われないか。口を開く前から、声というものはもう私のものであるより先に、誰かに測られるもののように感じられる。

ふだんはそんなことを忘れている。

買いものをするとき、挨拶を返すとき、くだらない話で笑うとき、声はただ身体の前を通っていくだけである。ところが、ここぞという場面になると急に違う。胸の奥で心臓がひとつ余計に打つ。その拍子に、声のまわりへ、見えない目盛りがすっと立つ。いまから出すそのひとことが、どのくらい値打ちのあるものとして受け取られるのか、自分でもいやになるほど気にしてしまう。

誰かの評価がほしいのだと思う。

そう書くと、少し浅ましい。けれど、ほんとうにそうなのだから仕方がない。認められたい。届いたと言ってほしい。おまえの声には意味があったと、どこかで判を押してほしい。人はもっと無欲に、自分のためだけに語れるものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。少なくとも私は、自分の声が誰にも届かぬまま空気へ消えるのを、案外おそれている。

しかも困ったことに、評価というものは、ひとりでは完結しない。

誰かと並び、誰かと比べられ、誰かより前だとか後だとか、そういう形になって初めて輪郭を持つことが多い。競うことなどくだらない、と言い切れたらどれほど楽だろうと思う。けれど実際には、競わなければ見えてこないものもある。自分の声の癖、甘さ、弱さ、届く距離。そういうものは、静かな部屋でひとり練習しているだけでは、なかなかわからない。

先日も、人前で話す前に、ひどく喉が渇いた。

始まる前の部屋には、まだ雑談の残り香のようなものが漂っていた。誰かが小さく笑い、椅子がわずかに鳴る。その中で私は、自分の名を呼ばれるのを待ちながら、ひどく耳がよくなっていた。隣の人の声は落ち着いて聞こえる。前の人の言葉は、こちらよりずっとまっすぐ届いているように思える。そんなことを考えているうちに、まだ何も始まっていないのに、勝手に負けたような気分になる。

だが、いざ自分の番が来ると、不思議なこともある。

最初のひとことは少し硬い。二つ目もまだ借りものめいている。けれど三つ、四つとつづくうちに、どこかで急に、自分の声が自分の中へ戻ってくる瞬間がある。他人にどう聞こえるかを気にしながら、それでもなお、自分の声でしか渡せないものがあると、身体のほうが思い出すのである。

競うことは、たぶん、そのためにも必要なのだろう。

勝ち負けそのものをありがたがるのではない。比べられる場所へ出ることでしか、磨かれない輪郭がある。悔しさはあまり上等な感情ではないが、声を少し深くすることがある。誰かのよさに打ちのめされることは苦いが、自分の足りなさを見せてくれる。そうやって人は、ただ褒められるためでなく、届くようになるために、少しずつ競わされているのかもしれない。

それでも私は、いまだに胸が高鳴る。

うまく言えるだろうか、と思う前に、どう聞こえるだろうか、と思ってしまう。その順番の浅ましさを、まだ捨てきれない。けれど最近は、それでもいいのかもしれないと少し思う。評価を欲しがる心は、見苦しいだけのものではなく、声を外へ出したいという願いの裏返しでもあるからである。

人にどう聞こえるかを気にする声は、まだ半分、他人のものである。

だが、その半分の落ち着かなさを抱えたまま、なお自分の声で話そうとするとき、ようやくその声は少しだけ、こちらのものになる。

胸の高鳴りは、たぶん、負けたくないという気持ちだけではない。

まだ自分の声を、ほんとうの意味で受け取ってほしいのである。