八十億分の一、という数字を思う。
世界には、人が多すぎる。多すぎて、ひとりの輪郭など、すぐに薄くなる。朝の駅、画面の向こう、遠い国のニュース、知らない誰かの成功、知らない誰かの死。その全部を足し合わせた中で、私はただの一人である。名前があっても、顔があっても、生活があっても、世界の大きさから見れば、ほとんど小さな点にすぎない。
だが、その小さな点が、今日も何かを選ばなければならない。
そこが厄介なのである。
何もしないことも、何かをすることも、結局は選択になる。右へ行くのか、左へ行くのか。続けるのか、やめるのか。信じるのか、疑うのか。誰かの言葉を借りるのか、自分の言葉で立つのか。世界から見れば取るに足らない判断でも、本人の生活の中では、妙に重い音を立てる。
覚悟、という言葉は、少し大げさに聞こえる。
けれど本当は、大げさな場面だけにあるものではないのだろう。命を賭けるとか、人生を変えるとか、そんな派手な旗の下だけにあるのではない。もっと小さく、もっと湿った場所にある。失敗したとき、誰のせいにしないでいられるか。その一点に、覚悟のほとんどが隠れている気がする。
失敗しても文句を言うな。
そう言われると、ずいぶん乱暴で、冷たい言葉に聞こえる。実際、冷たい。世の中には運もある。環境もある。持って生まれたものの差もある。努力だけではどうにもならないことも、いくらでもある。だから、すべてを自己責任という札で片づけるのは、あまりに雑で、あまりに強者の都合がよすぎる。
それでもなお、自分で選んだものについてだけは、世界へ向かって文句を投げすぎないほうがいいのだと思う。
少なくとも、投げる前に一度、手の中を見るべきなのだろう。そこに自分の指紋がついていないか。誰かに押されたと思っていた扉を、最後に開けたのは自分ではなかったか。流されたと言いながら、その流れに乗るほうが楽だと、どこかで思っていなかったか。
八十億分の一であることは、言い訳にもなる。
どうせ自分など小さい。どうせ世界は変わらない。どうせ誰も見ていない。そう考えれば、いくらでも軽くなれる。だが同時に、それは逃げ場にもなる。私は小さいのだから仕方がない。私は多くの中の一人なのだから、責任も薄まるはずだ。そうやって自分の影を、世界の大きさの中へ隠すこともできる。
けれど、選ぶ瞬間だけは、八十億分の一では済まない。
そこでは、私は一である。
代わりはいない。ほかの七十九億九千九百九十九万九千九百九十九人がどう生きていようと、目の前のひとつを選ぶのは私である。失敗したときに痛むのも、眠れなくなるのも、やり直す机に戻るのも、やはり私である。世界の中では点でも、自分の人生の中では、どうしても中心に立たされてしまう。
そこからは逃げられない。
だから、覚悟とは、自分を大きく見せることではないのだと思う。むしろ逆である。自分がどれほど小さいかを知ったうえで、それでも自分の選択だけは引き受けること。その小ささと責任のあいだに立つこと。
失敗しても文句を言うな。
その言葉を、他人へ投げるのは危ない。簡単に人を傷つける。けれど、自分の胸の内側へだけ向けるなら、少し違う響きになる。文句を言うな、ではなく、文句だけで終わるな。失敗したなら、そこから何を拾うのか。選んだなら、次はどう選び直すのか。その問いを、自分から取り上げるな、という声になる。
八十億分の一の人間が、夜の机に向かっている。
誰にも見えない。世界は知らない。ニュースにもならない。だが、その小さな一人が、明日も何かを選ぶ。うまくいくとは限らない。正しいとも限らない。けれど、選んだあとに自分の影から逃げないのなら、その小さな点にも、ほんの少しだけ重さが宿る。
覚悟とは、たぶんその重さのことなのだ。