このごろ、机の前で手が止まることがある。

忙しくないわけではない。返事をしなければならない連絡もあるし、片づけなければならない事務もある。請求書、見積り、入金、発送、段取り、確認。自営業というのは、好きなことだけして生きる形ではなく、細かい用事をひとつずつ拾いあげる暮らしなのだと、開業してからよくわかった。わかったのだが、その「よくわかった」という感じが、この二年目にはかえって重い。

一年目は、まだ勢いで走れた。

始めたばかりの者には、妙な追い風がある。失敗しても仕方がないという言い訳が自分の中に残っているし、初めてのことには、それだけで少し熱がつく。けれど二年目になると、事情が変わる。もう何も知らないふりはできない。続けるなら続けるなりの形を見せろ、と、誰に言われるでもなく机の向こうから責められている気がする。

行き詰まる、というのは、何も出なくなることではないらしい。

むしろ、やることは目の前にいくらでもあるのに、そのどれを「仕事」と呼べばいいのか曖昧になることなのだと思う。売上につながること、今月をしのぐこと、先の仕込みになること、自分がやりたいと願っていたこと。その境目が、日に日に濁ってくる。気がつくと、何かに追われて一日を使ったのに、肝心の自分だけが置き去りになっている。

私はときどき、開業前に考えていたことを思い出そうとする。

たしか、もっと自分の裁量で動きたかった。もっとましな時間の使い方がしたかった。誰かの指示ではなく、自分の選んだ手ざわりで仕事を組み立てたかった。そういうことを、たしかに思っていたはずなのである。ところが、いざ自分で始めてみると、自由というものは広い野原ではなく、案外、誰も道を決めてくれない空き地に近い。立ち尽くしているうちに、雑草だけが先に伸びる。

自営業の憂鬱は、貧しさだけから来るのではない。

もちろん金の不安はある。来月はどうなる、夏は越せるか、今のやり方で合っているのか。けれど、それ以上に重いのは、自分で選んだはずの道なのに、その選んだ理由がだんだん曇っていくことである。人に決められたのなら、まだ文句も言える。だが自分で始めたことは、苦しくなったとき、その苦しみの説明まで自分で引き受けなければならない。

昨夜、閉めた机の引き出しをまた開けた。

中には古いメモ帳があり、開業前の走り書きが何ページか残っていた。やりたいこと、やらないこと、こういう仕事の仕方はしたくない、という短い文が、思ったよりまっすぐな字で並んでいる。いまの私は、その字を少しまぶしく感じた。二年前の自分は、たぶん不安で、たぶん甘く、それでもまだ、何を嫌い、何をしたいかをいまよりはっきり知っていた。

仕事とは何なのだろう、とこのごろよく思う。

暮らしを支えるための手段なのか、やりたいことを形にするための器なのか、それとも、毎日自分を少しずつ削りながらも続けるしかない習慣なのか。答えはひとつではないのだろう。けれど開業二年目の苦しさというのは、そのどれにもなりきれない中途半端さの上で、毎日また店を開けるところにあるのかもしれない。

それでも朝になると、私はまた机の前へ座る。

本当にやりたかったことが何だったのか、まだきれいには言えない。けれど、わからなくなったままでも、ときどき古いメモを開いて、自分の字のまっすぐさに叱られる。それくらいのことが、いまは案外だいじなのかもしれない。