最近、寝る前に古典落語をいくつか聴いていた。何の前触れもなく、急に懐かしくなったとしか言いようがない。

驚いたのは、続けて3つ聴いたら、共通する話だったということだ。表向きは、寒い夜の蕎麦屋の話だったり、財布を拾う魚屋の話だったり、竹を彫る職人の話だったりする。けれど、一段奥のほうでは、3つともじつに 「お金」と「気持ち」のずれ を笑っていた。

ずれの形はそれぞれ違う。

順に書いてみたい。


1. 時そば — 1文を惜しむと、悉く裏目に出る

『時そば』は、とりわけ有名な噺だ。

寒い夜、ある男が屋台の蕎麦屋に立ち寄る。江戸の蕎麦は二八、つまり 2 × 8 で 16文。男は店主に、割り箸の良さ、出汁の品、細麺の腰、薄切りちくわの粋まで、片端から褒めちぎる。気をよくした店主のもとで、男は「ひい、ふう、みい、よ、いつ、む、なな、や、いま何時で?」と数え、店主が「四つで」と答えたところで、「いつ、む、なな…」と続けて、1文ごまかしてしまう。

ここまでが半分だ。

翌日、これを横から見ていた別の男が、「自分も同じ手を使ってやろう」と意気込んで、別の蕎麦屋に入る。ところがその店は寒くもない、火を落としかけている、麺はベタベタ、器は欠けている、箸も折れている、出汁も渋い。それでも男は無理に褒めようとして、悉く滑稽に失敗する。最後は聞くタイミングが早すぎて、なんと1文 余計に 払って終わる。

この噺の面白さは、「1文をけちる気持ち」だけが先走って、条件のすべてが揃って初めて成立する技 をなめてかかった、という構造にある。気持ちと金は、こちらの都合だけでは合わない。

ケチるという気持ちと、ケチれる場面とは、そもそも別物だった、ということになる。


2. 芝浜 — 大金が手のひらに乗ると、人は一度崩れる

『芝浜』は、年末によく演じられる噺だ。

魚屋の勝五郎は、酒好きで怠け者である。ある冬の朝、女房に叩き起こされて、まだ店も開いていない芝の浜辺で一服していると、波打ち際の財布を拾う。中には 42両、当時の感覚でいえば、何年も遊んで暮らせる大金だ。

家に駆け戻った勝は、女房と一緒に酒盛りを始める。

ところが、翌朝目を覚ますと、女房は「そんな金なんて見ていない、夢でも見たんでしょう」と取り合わない。大家にも「夢だ」と言い切られる。勝は最初こそ憤慨するのだが、大金を拾ったという気の高ぶりが冷めるにつれ、「夢だったのか」と納得し、自分の散財を恥じて、酒を断って真面目に働き始める。

3年たった大晦日、店は繁盛し、借金も消え、畳まで新調された家で、女房がついに真相を告白する。あれは夢ではなかった。財布は届け出て、3年後に正式に勝のものになっていた、と。

最後、勝は怒らず、頭を下げて「騙してくれてありがとう」と言う。仲直りに女房が酒を一本つけたとき、勝は杯に手を伸ばしかけて、こうつぶやいて締める。

よそう、また夢になるといけねえ。

ここで響くのは、女房が3年間ついた嘘の重さだ。手のひらに乗った大金は、勝の気持ちを一度崩した。崩れた気持ちを立て直すのに、女房は嘘という、自分も傷つく方法しか持たなかった。

お金は、その額に見合った量の気持ちを、必ずどこかから引き出す。それを受け止める覚悟があるかどうかで、家のかたちが変わる、という話なのだ。


3. 竹の水仙 — 値段は、見る人の目によって動く

『竹の水仙』は、名工 左甚五郎 が主人公の噺だ。

甚五郎は江戸へ向かう途中、神奈川宿の「大黒屋」に金もないまま居座る。1日3升の酒、贅沢な魚、勘定はまとめて払うと言い張って、しまいに一文無しの素性が露見する。困った主人を見かねて、甚五郎は夜中に竹で水仙のつぼみを彫り、店先に売り物として吊るす。

翌朝、つぼみが朝日で開花したそのとき、運悪く、運よく、大名 細川越中守 の参勤交代がそこを通り過ぎる。越中守は一目で気に入って、用人の 大月武部 に値段を聞きに行かせる。

ここからが滑稽だ。

主人は値段を「越中守なら 200両でお譲りする」と言う。武部は越中守に取り次ぐのだが、200 を 20 と聞き違えたり、2万 と取り違えたりして、行ったり来たりするうちに、しまいに主人を殴りつける。殴られた主人は澄まし顔で、「いえいえ、殴られると1殴りにつき 100両ずつ上がります、変動相場ですので」と返す。

最終的に、竹細工は 300両 で買い上げられる。

ここで甚五郎が言うのが、こういう一言だった。

考えに花を咲かせれば、寿命が縮むよ。

これは武部の珍道中をからかった台詞でもあるのだが、もっと広く読める気がする。値段は、見る人の目によって動く。同じ竹細工が、20両にも、200両にも、300両にもなる。気持ちの取り違えひとつで、お金は人を殴ることまでするのだ。

物の値段は、紙の上で決まっているように見えて、本当はその場の見る目と気持ちで揺れている、ということなのだろう。


まとめ

3本を並べると、こうなる。

  • 時そば — ケチる気持ちは、条件が揃わないと裏目に出る
  • 芝浜 — 大金は、人の気持ちを一度崩す。立て直すには、誰かの覚悟が要る
  • 竹の水仙 — 値段は、見る人の目によって動く

それぞれ違う形だが、共通しているのは、お金と気持ちは、ぴったり合ったためしがない、ということだ。お金には額がある。気持ちには輪郭がない。輪郭のないものに額をつけようとするから、3つの噺のような笑いどころが生まれる。

落語が長く愛されてきた理由は、たぶん、お金と気持ちのずれが、いつの時代にも変わらない からなのだろう。江戸の蕎麦屋でも、芝の浜辺でも、神奈川の宿屋でも、人間はずれを抱えながら生きていた。そのずれを、噺家は怒らずに、きっぱりと笑い飛ばす。

笑い飛ばせる、という構えのほうが、私たちの生活にはたぶん効く。お金のことで眉間に皺を寄せる前に、まず一度、3つの噺を聞き直してみるのは悪くない、という気がしている。


参考にした動画