このごろ、ゴミを減らそうと思うことが増えた。

急に立派な人間になったわけではない。海のことを深く考えなおしたとか、環境について新しい信念を持ったとか、そういう大げさな話ではないのである。ただ、何かを捨てるたびに、その向こうにある別の勘定がちらつくようになった。袋ひとつ、容器ひとつ、余った惣菜の白い皿ひとつ。どれも軽いものなのに、軽い顔をしていない。

石油の値段が上がっている、とニュースは繰り返す。

けれど、石油というものは、私の目にはいつも少し遠い。海の向こうから来る黒い液体であり、数字の上下で語られるものであり、ふつうの台所の灯りの中には見えにくい。ところが実際には、その遠いものが、レジ袋の薄さや、洗剤の詰め替え袋の頼りなさや、車に給油したあとの妙なため息となって、こちらの暮らしへじかに入りこんでくる。

先行きが不安だ、という言葉も、以前よりよく聞くようになった。

世界の景気がどうとか、戦争がどうとか、輸送費がどうとか、説明はいくらでもある。どれもたしかに本当なのだろう。けれど私がいちばん先に感じる不安は、そんな大きな形ではやって来ない。スーパーの棚の前で、前より少し高くなった油の瓶を見たとき。使いかけのラップを、もう一度だけ何とか使えないかと指先で伸ばしているとき。冷蔵庫の半端な野菜を捨てずに済む献立を、頭の中で細かく組み替えているとき。そういう、ごく小さな場面で、先の見えなさは音もなく座りこむ。

それでも、世界は進んでいく。

進むのをやめてはくれない。こちらが節約しようと倹約しようと、遠くの工場は動き、船は走り、値札は静かに書き換えられていく。進歩と呼ばれるものもたぶんどこかで続いている。新しい便利さ、新しい早さ、新しい売り文句。けれどそのいっぽうで、台所では古い輪ゴムを引き出しに戻し、少し破れた袋をもう一度たたみ直してしまう自分がいる。

私はこのごろ、その手つきを少しおかしく思う。

世界の大きな流れには何ひとつ手が届かないくせに、豆腐の容器を洗って小物入れにしようかと考えている。買いものへ出る前に、冷蔵庫の奥まで覗いて、今あるもので済ませられないかを確かめている。風呂の湯を前より少しだけ早く止める。エアコンの温度を一度だけ見直す。そういう小さな倹約は、実際の金額にすれば、ひどくささやかなものかもしれない。

けれど、ささやかなものほど、いまの不安には似合っている。

大きな希望が見えないとき、人は大きな行いより、まず小さな始末を覚えるのかもしれない。こぼれたものを拭き、余ったものを残し、まだ使えるものをもう一度使う。それは清貧というほどきれいな話ではなく、もっと生活じみた、心細さに近い動きである。

昨夜、ゴミ袋を縛りながら、ふと思った。

この袋の中には、捨てたものだけでなく、少し前まで気楽だった自分の暮らし方も一緒に入っているのかもしれない。気にせず使い、気にせず買い、気にせず捨てていた頃の手つきである。袋は軽かったが、口を結ぶ指先には、妙に細かい意識が残った。

ゴミを減らすというのは、物を減らすことだけではないのだろう。

たぶん、自分の中にあった無頓着さを、少しずつ剥がしていくことでもある。石油の値段が上がる。先行きはまだ落ち着かない。それでも朝は来て、店は開き、世界は黙って先へ進む。だからこちらは、その速さについていけないなりに、せめて小さな勘定だけは自分の手でつけていく。

そうして今日も、捨てる前に一度だけ、これはまだ使えないかと考えてしまうのである。