テレビの音が、家の柱のように立っていた時代がある。

朝のニュースから夜のドラマまで、どの部屋にも同じような明かりと声が流れていて、笑いも泣きも、まずはあの箱の中から来るものだと思っていた。私のような世代にとって、娯楽とはだいたいテレビのことであり、面白いとは、あの四角い光の前で口を開けることだったのである。

けれど、このごろ私はあまりテレビを見ない。

部屋の隅にある黒い画面は、いまでは消えた窓みたいな顔をしている。そのかわり、手もとの小さな画面で、某動画サイトを開くことが多くなった。短く切られた映像、言葉を急がせる字幕、次から次へと出てくるおすすめ。笑えるものもたしかにあるのだが、見終わったあとに何が残るかというと、案外、指先の疲れだけだったりする。

先日、その流れで落語の動画を見た。

高座の人がひとこと言う。そのあと、会場の奥から、わっと笑いが立った。べつに珍しいことではない。落語なのだから、客が笑うのは当たり前である。けれど私は、その当たり前に、妙に足を止められた。

いま聞こえた笑いは、作られた効果音ではなかった。

少し遅れて吹き出す人がいる。もうこらえきれないみたいに先に笑う人がいる。喉の奥でこぼれるような小さな笑いも混じる。そのばらばらな声が、気づくとひとつのやわらかい波になって、画面のこちら側まで寄せてくる。私はそれを聞きながら、そうだった、と思った。人は、自然な笑いに誘われて笑うのだった。

おかしいから笑う、というより、誰かの無理のない笑いに背中を押されて、こちらの顔もほころんでいく。

そういうことを、私はずいぶん長く忘れていた気がする。テレビを見なくなったことより、そのことのほうが少し大きい。ひとりで画面を追う時間が増えるほど、笑いはだんだん個人の作業になっていたのかもしれない。声を立てる前に、これは笑うところかとどこかで確かめてしまう。そういう癖が、知らぬまに顔を固くしていたのだろう。

けれど、あの落語の動画では、暗い客席の見えない人たちが、まず先に笑ってくれた。

その声につられて、私の口もとがようやくゆるんだ。たいしたことではない。けれど、その自然なほころびは、最近のどんな派手な映像よりも、よほど私を安心させた。

笑うというのは、面白さを判断することではなく、安心して身をゆるめることでもあったのだ。

私はたぶん、落語そのものだけでなく、その向こうでわきあがる客席の笑いに、忘れていた自分の顔を返してもらっていたのである。