白いテントの下に、土の匂いはあまりしなかった。
ファーマーズマーケットという名前なのだから、もっと土のついたものが並んでいるのかと思っていた。曲がったきゅうり、泥の残るにんじん、葉の先が少ししおれた大根。そういうものが木箱の中に無造作に積まれていて、売り手の手だけが日に焼けている。勝手にそんな景色を想像していたのである。
けれど実際には、そこはもっと明るく、もっと整っていた。
野菜はきれいに拭かれ、袋に入れられ、ラベルを貼られていた。隣には瓶詰めのジャムがあり、その向こうには焼き菓子があり、さらに奥には布の小物や器や、どこかの作家が作ったらしい雑貨まで並んでいる。コーヒーの匂いもする。子ども向けの小さな催しの案内も立っている。市場というより、半分は休日の会場だった。
値段は、少し高い。
スーパーの棚を思い浮かべれば、すぐにわかる。ひとつひとつの数字が、ほんの少し上に置かれている。けれど不思議なことに、そこではあまり腹が立たない。高いな、とは思う。だが、高すぎる、とまでは思わない。むしろ、まあこれならいいか、と手が伸びる。
その差は何なのだろう。
たぶん、野菜だけを買っているのではないのだ。朝の空気、白いテント、作った人の顔、少し気取った袋、帰り道に誰かへ話せる感じ。そういうものが、見えない薄紙のように値段の上へ一枚ずつ重ねられている。付加価値という言葉で片づければそれまでだが、ほんとうはもっと小さな仕掛けの集まりなのかもしれない。
農業の気配を、そこは不思議なほど前へ出しすぎていない。
もちろん畑はあるのだろう。朝早くから収穫した人もいるのだろう。けれど売り場に出ているのは、泥や労働の重さではなく、選ばれた感じのほうである。土の奥から来たものが、ここへ着くころには少しだけ町の顔をしている。そこが嫌だというより、その変身の仕方が、妙に現代らしく見えた。
昔ながらの野菜屋は、もう少し直線的だった気がする。
買うものは野菜であり、見るものも野菜であり、聞こえるのは店先の声だった。今日のほうれん草はいくら、大根は安い、玉ねぎをもうひとつ入れておく。そこには余計な演出が少なかった。だからこそ、野菜屋は野菜屋でいられたのだと思う。
けれど今、野菜だけで人を呼ぶのは難しいのかもしれない。
人は買い物に、少しだけ出来事を求めている。今日はどこへ行ったのか。何を見たのか。誰から買ったのか。袋の中身より先に、その周りの時間を欲しがっている。そう考えると、ファーマーズマーケットが雑貨や音楽やイベントを抱えこむのは、にぎやかさではなく、生き残るための姿勢なのだろう。
野菜屋というものは、消えつつあるのだろうか。
それとも、形を変えているだけなのだろうか。
白いテントの下で、私はひとつ高めのトマトを手に取った。つやつやしていて、まるでさっきまで畑ではなく、どこかの展示台にいたような顔をしている。紙袋へ入れてもらうと、その赤さは急に品物らしくなった。
そのとき、売り場の足もとに、ほんの少しだけ乾いた土が落ちているのが見えた。
誰も気にしていない。誰も踏みとどまらない。コーヒーの香りと音楽と笑い声の下で、その土だけが、昔の店先からこっそり逃げてきたもののように残っていた。
私はそれを見て、ようやくここが市場なのだと思った。