夕方の駅で、肩を押された。
ホームの階段を降りる流れの中で、後ろから来た男が私を一瞬寄せて、そのまま脇を抜けていった。彼は気づかない。私はそのまま降り続けたが、内側で温度がひとつ上がる音だけ、はっきり残った。
たぶん私は、なめられたのである。
あちらは私を、押しても問題のない位置にあるものとして処理した。意図的ではないだろう。けれど、そう判断されるだけの何かが、私の側からは出ていなかったわけだ。腹が立つ。腹の立て方を、自分の中で力に変えられたら、と思う。それで走る。荷物を持ち上げる。声を強く出す。これが、このところ繰り返してきた手筈である。
ただ、最近、ひとつ気になり出している。
押されない人、というのが、世の中に確かにいる。彼らはとりたてて大きいわけでも、声が太いわけでもない。けれど、あの夕方のホームで彼の前にいたら、後ろから来た男はたぶん押さなかった。
威圧感とも違う。
身構えているわけでもない。むしろ静かで、機嫌よさそうにすら見える。にもかかわらず、その人の背中の周りには、押すと自分のほうも崩れそうな密度が、うっすら漂っている。手前で人が、自然にひと足分の距離を空ける。本人はそのことに気づいていないようですらある。
そういう人を見るたびに、私はわからなくなる。
私が「強くなる」と言うとき、頭の中で描いているのは、押し返せる強さだ。怒りを溜めて、燃料に変えて、必要なときに出力できる、そういう装備の話である。けれど、押されない人たちは、押し返す訓練をしているように見えない。彼らは、押される手前の段階で、すでにそこに穴が開いていない。
押し返せる強さと、そもそも押されない強さは、たぶん別のものだ。
前者は、出来事のあとを早くする。後者は、出来事の手前を変える。私はずっと前者ばかり気にしてきて、自分の側に火種を貯めることに熱心だった。けれど本当は、もう一段手前の話があるらしい。
何が、私の周りの密度を薄くしているのか。
たぶん、自分のほうが先に誰かをなめている、という気配ではないか、と疑っている。日々の生活で、知らないうちに、店員、知人、家族、SNS の向こうの誰かを、薄く軽んじて済ませている瞬間がある。そのたびに、私は自分の体の周りの密度を少しずつ削っているのではないか。空気は循環している。出した分は、たいてい返ってくる。
そうだとすると、強くなるという言葉の意味は、私が思っていたよりずいぶん地味で、しかも遠い。
押し返せる装備を増やす話ではなく、誰かを薄く軽んじて済ませる回数を、ひとつずつ減らしていく 話ということになる。怒りを力に変える、という言い方は、たぶん少しだけずれている。本当に変えるべきは、怒りそのものよりも、怒りが必要にならない側の、自分の構え方だ。
もちろん、それで世界の誰もが私を押さなくなるわけではない。
ただ、次に夕方のホームで肩を押されたとき、内側の温度の上がり方が、いまより一段だけ低くなる気はする。低くなった分だけ、押された出来事を、こちらが処理する時間が短くなる。短くなった分だけ、別のことに使える。
それくらいの違いが、たぶん「強くなる」ということなのだろう。
私はまだ、その手前にいる。