彼は、誰にもあまり好かれない。

それはべつに、意地が悪いからでも、声が大きいからでもなかった。ひどく礼儀知らずというわけでもない。むしろ表面だけ見れば、いつも「はい」と言うし、言われたことは一応やるし、言い返したりもあまりしない。だから最初のうちは、感じのよい人に見えることさえある。

けれど、すこし長くいると、みんな同じ顔になる。

ああ、この人は、自分で考えないのだな、という顔である。

それも、考えないと決めている者の顔ではない。考えようとすべき場面そのものが、よくわかっていない者の顔である。何をどう判断するかを、自分の内側で組み立てるかわりに、つねに外から来る言葉を待っている。次に何を言うべきか、どこで笑うべきか、どちらへ立つべきか、だれに近づくべきか、すべて他人の気配で決めているのである。

しかも、本人には、その自覚がほとんどない。

なぜ人が少しずつ離れていくのか、なぜ話していて妙に疲れるのか、なぜ頼まれたことはしても、いっしょにいたいとは思われないのか。その理由を、彼はだいたい運のせいか、相手の機嫌のせいだと思っている。自分の中に、まだ育っていない何かがあるのではないか、とはあまり考えない。

考える力というのは、むずかしいものである。

頭がよいとか悪いとかいう話だけではない。立ち止まって、いま何が起きているのかを見て、なぜそうなるのかを自分の言葉で組み立てる、その手つきのことである。彼は、その手つきを身につけるすべを知らなかったのだと思う。わからないときに何を調べるか、疑うべきは何か、自分の考えが浅いと気づいたときに、どこから掘り直せばいいのか。そのやり方を、彼は一度もほんとうには覚えなかった。

だから、だれかの言いなりになる。

強い声のほうへ行き、その場でいちばんわかりやすい意見を借り、それを少し遅れて自分の口から出す。きのうまで別のことを言っていても平気である。前に言ったこととのつながりを、自分で確かめないからだ。叱られればその場だけしおらしくなり、褒められればすぐそちらへ寄る。まるで中身のない器に、そのつど近くの声を流し込んでいるようである。

ときどき私は、そういう人を見ていると、少しこわくなる。

悪人だからではない。むしろ、はっきりした悪意のある人のほうが、まだ輪郭がある。こういう人は、自分で考えないぶんだけ、どこまででも他人の形に沿ってしまう。きょうは親切な人のまねをし、あしたは冷たい人の言い草をまねし、そのどちらにも、自分で選んだ責任を感じない。責任を持たない者の従順さは、親切よりも、ときどき機械に近い。

先日、雨の夕方に、その彼が駅前でだれかと電話しているのを見た。

小さな声で、「はい」「はい」「わかりました」と何度も言っていた。切ったあともしばらく動かなかった。改札の前の人の流れの中で、片手にスマートフォンを持ったまま、次にどう歩くかを忘れてしまったみたいに、じっと立っていたのである。画面はもう暗くなっていた。

その顔を見たとき、私はふと思った。

彼は、だれにも好かれないのではなく、まだ一度も、自分というものを相手に手渡したことがないのかもしれない。

借りものの声ばかりで生きている者には、好かれるための輪郭がない。

だから彼はたぶん、今夜もだれかの言葉を待つ。

自分で考えはじめるより先に、つぎの指示が来るほうを、どこかで安心しているような顔で。