この世には、確かなものがあまりない。

あるのか、ないのか。正しいのか、間違っているのか。生きているのか、死んでいるのか。人はそういう一かゼロの形を好むけれど、実際の暮らしは、その手前の濁った場所でばかり進んでいく。朝の気分、明日の景気、他人の本心、自分の才能、老いの速さ。どれも推測はできるが、断定までは届かない。

AIがいくら発達しても、そこは変わらないのだろうと思う。

答えを早く出すことはできる。候補を並べることも、傾向を読むことも、こちらより上手になるかもしれない。けれど、それは不確かなものを消す力ではなく、不確かなものをより巧みに扱う力にすぎない。賢さが増すほど、むしろ世界の曖昧さだけが、前よりはっきり見えてくることさえある。

私たちは、断定のない場所に住んでいる。

だから不安になる。だから占いも予測も診断も、つい覗きたくなる。何かひとつでも「これでよい」と言ってほしいのである。だが、ほんとうのところ、多くのことは最後まで仮のままだ。確からしさは増えても、揺らぎそのものは消えない。

それでも今日という日は、曖昧なまま始まって、曖昧なまま暮れていく。

たぶん生きるというのは、その不確かなものに振り回されながら、なお机に向かい、茶を飲み、誰かに返事を書き、眠る支度をすることなのだ。揺るぎないものを持たないまま、それでも手を動かしてしまう。その頼りなさの中にしか、こちらの時間は置かれていない。

一かゼロだけが真実だとしても、人の一日は、その手前で長く明滅している。

そして私たちは、その明滅のほうを、生きている、と呼ぶしかないのかもしれない。