救急外来の待合には、ときどき妙な明るさがある。

その夜もそうだった。白い蛍光灯の下で、長椅子に並んだ人たちは、顔色こそそれぞれ違うのに、話し声だけは思いのほかよく弾んでいた。笑っている者までいる。こちらは熱のある身体を折りたたむみたいにして座っているのに、すぐ隣では、夕飯の話や親戚の話が、まるで近所の寄り合いのような調子でつづいていく。

元気そうに見える、と思った。

そんなにしゃべれるなら大丈夫なのではないか、と意地の悪いことまで考えた。救急外来というのは、もっと静かで、もっと切実な顔ばかりが集まる場所だと、どこかで勝手に思っていたのである。ところが現実には、具合の悪さと話し好きとは案外両立するらしい。

そのうち、先生の診察呼び出しがあった。

名前を呼ばれても、談笑していた二人は気づかない。看護師がもう一度呼ぶ。まだ気づかない。三度目で、ようやく隣の人に肩をつつかれ、ひとりが「えっ」と顔を上げた。耳が遠いのかもしれない。ほんとうに聞こえていなかったのだろう。だが、待つこちらからすると、その数秒さえ少し腹立たしい。人の時間を巻きこんで、場の流れを鈍くしているように見えるからである。

病人になると、人はわがままになる。

そう思うことがある。痛い、つらい、しんどい、自分の順番が遅い、椅子がかたい、水がぬるい。身体のどこかがうまく働かなくなると、人は世界の中心をすぐ自分の不調へ引き寄せる。ふだんなら流せることまで流せなくなる。それはたぶん、弱っているのだから仕方がない。

病気になりたくてなっているわけではないのだ。

それも、もちろんわかっている。好きこのんで熱を出す者はいないし、咳を長引かせる者もいない。待合で声が大きい人も、耳が遠くて呼び出しに気づかない人も、自分の身体が思うようにいかなくなった結果として、そこに座っているだけなのだろう。責めれば済むほど、病気というものは単純ではない。

けれど同時に、生活習慣というものは、そのつど見直すしかないのだとも私は思う。

病気は突然やって来ることもあるが、毎日の積み重ねの先で大きくなるものもある。寝不足、食べすぎ、飲みすぎ、運動不足、放っておいた違和感。どこまでが不可抗力で、どこからが自分の手の届く範囲だったのか、その境目はいつも曖昧だ。曖昧だからこそ、人は病気のあとで、少しだけ暮らしを見直すしかないのだと思う。

私もその夜、待合の椅子に座りながら、自分のことを少し考えていた。

最近の眠り方、食べ方、疲れを疲れのままにしておく癖。病院へ来るほど悪くなる前に、たぶん直せたものもあったはずである。そう思うと、隣で談笑している人たちのことを一方的には嫌えなくなる。みんな、自分のわがままと、自分の弱さと、自分の手遅れを少しずつ抱えてここへ来ているのかもしれない。

やがてまた、名前が呼ばれた。

今度は私だった。すぐ返事をしたつもりなのに、声が自分の耳にはひどく遠く聞こえた。立ち上がると、さっきまで話していた人たちが、こちらをちらりと見た。その顔は別に元気そうでも、能天気そうでもなかった。ただ白い灯りの下で、順番を待つ者の顔をしていた。

救急外来の待合には、ときどき妙な明るさがある。

けれど、あの明るさは元気なのではなく、弱った人間どうしが、沈みきらないように声を出しているだけなのかもしれない。