強い雨の日には、島から人がいなくなる。
ほんとうに消えるわけではない。家の中へ引っこむだけである。洗濯物を早めに取りこみ、窓のすきまを確かめ、用のない外出をひとつ取りやめる。そうして表へ出る人影が減ると、道だけが急にむき出しになり、灰色の空の下で、濡れた舗装ばかりが長く光る。
そういう日に目立つのは、たいていレンタカーである。
白いのも銀色のも、見慣れない番号のものも、島の雨にまだ慣れていない顔つきで、つぎつぎ通っていく。容赦がない、と思うことがある。細い道でも遠慮なく入ってきて、水たまりをはね、こちらが少し避けるのを当然のように待っている。向こうに悪気があるのかどうかは知らない。ただ、強い雨のなかでは、車の性格まで硬く見えるのである。
腹が立たないわけではない。
こんな日にまで、と思う。晴れた海や南国らしい光を見に来たはずなのに、なぜいちばん島の道が狭く見える日に、そんなに急ぐのだろうとも思う。こちらはここで暮らしていて、買いものも、迎えも、仕事も、みんなこの雨の中で続けている。観光の気分だけで走られると、生活のほうへ泥水をかけられたような気持ちになる。
けれど、そこで話が終わるほど、島の暮らしは単純でもない。
観光客を受け入れることは、きれいごとではなく、生活の一部である。店も、宿も、食堂も、土産物屋も、見えやすいところと見えにくいところで、みなつながっている。来てもらわなければ困る人がいる。来てもらうことで、こちらの暮らしがつづく部分もたしかにある。だから、雨の日のレンタカーに腹を立てながら、その一台一台を、まるごと拒めるわけではないのである。
ほんとうは、誰が来ても、ちゃんともてなしたい。
晴れた日だけ親切な島でいるのではなく、空の悪い日にも、道の見えにくい日にも、来た人がこの島を嫌いにならずに帰れるようにしてやりたい。せっかく遠くから来たのなら、海の色だけでなく、人の気配までよかったと思って帰ってほしい。そう思う気持ちは、腹立ちとは別のところで、まだ消えずに残っている。
小さな島なのである。
道も細いし、店の数も限られているし、噂が一巡りするのも早い。狭いといえば、いくらでも狭い。けれど、だからこそ心まで狭くなるのは、どうもつまらない。島が小さいなら、小さいなりに、胸のほうだけは広くしていたい。向こうが不器用でも、土地に不慣れでも、雨に急かされて少し乱暴に見えても、最後には「まあ、よう来たね」と言える島民でいたいのである。
さっき、角の店の前で、立ち往生しかけたレンタカーが一台いた。
雨で前が見えにくかったのだろう。細い道で少しふくらみすぎて、対向の軽トラックとお互いに止まっていた。運転席には若い女の人がいて、困った顔でハンドルを握っていた。私は軒先から少し身を乗り出して、もう少し左、と手で合図をした。車はゆっくり動き、どうにか通れた。すれ違いざま、その人は深く頭を下げた。窓ガラスの向こうで、ひどくほっとした顔をしていた。
その顔を見たら、さっきまでの苛立ちが、雨水に薄まる墨みたいに、少しだけやわらいだ。
島の道は狭い。強い雨の日には、なおさらそう見える。けれど、道幅と心の幅は、べつべつであっていいのだと思う。
どうせ同じ迎えるなら、せめて胸の広いほうの島民でいたい。