もうこの世にいない人のことを思うとき、私はたいてい、顔より先に時間のことを考える。
どんな声だったか、どんな歩き方だったか、何を好んで食べたか、そういうことももちろん思い出す。けれど、それ以上に強く来るのは、あの時間はもう戻らないのだという、ひどく当たり前で、ひどく遅い実感である。人がいなくなるというのは、その人そのものだけでなく、その人といっしょに過ごせたはずの時間まで、まとめて閉じられることなのだろう。
だから私は、ときどき妙にもどかしくなる。
あのとき、もっと何かできたのではないか。もう少し言葉を選べたのではないか。電話を一本かけることも、会いに行くことも、黙って隣に座ることも、あのころの私にはまだできたのではないか。そんな問いは、もう答えの出ようがないくせに、いまさら静かな顔で戻ってくる。
後悔というものは、派手に泣きわめく形ばかりではないらしい。
もっと地味で、もっとしつこい。たとえば茶をいれているとき、帰り道の信号待ち、ふと古い店の前を通ったとき、そういう生活の端で、急にこちらの袖を引く。あのときもう少し、と言う。もう少し早く気づいていれば、と言う。何にどう気づけばよかったのか、はっきりもしないまま、ただこちらの胸の中に居座る。
先日も、ある古い写真を見た。
別に特別な一枚ではない。ぼやけた色で、誰かが少し横を向き、背景のほうがむしろよく写っている。だが、その写真を見た瞬間、私はまず思った。ああ、この人はこの先を知らないのだ、と。写真の中のその人は、まだ自分の先にどんな年月があるかを知らない。どんな別れがあり、どんな病気があり、どんな終わりがあるかを知らない。その無知の中に立っている。
そして私は、その先を知っている側にいる。
そのことが、ときどきたまらなく苦い。
私はいま、彼らの未来に立っている。彼らが迎えられなかった季節をいくつも通り、彼らがもう知らないニュースを見て、彼らがもう歩かなかった道を歩いている。こちらはただ年をとっているだけとも言える。けれど、いなくなった人の時間と比べたとたん、その先の年月は、急に借りものめいて見えることがある。
私だけが続きを知ってしまった、と思うのである。
それは優越ではない。むしろ、少し後ろめたい。こんなふうに生きのびて、こんなふうに次の季節へ入ってしまってよいのか、とさえ思う。あの人のいない春、あの人のいない夏、あの人のいない新しい年。世界は平気な顔で次へ行くが、こちらだけがときどき、その進み方にうまく足を乗せられない。
けれど同時に、こうも思う。
もし私がいま彼らの未来に立っているのなら、ここには本来、あの人たちが見たかもしれない景色も混じっているのではないか、と。私が代わりに生きる、などと立派なことは言えない。そんな大きな話ではない。ただ、こちらが見ている夕方の雲や、誰かとの短い会話や、季節の匂いの変わり目の中に、もういない人のぶんまで閉じ込められた未来が、少しだけ含まれている気がするのである。
それでも、もどかしさは消えない。
あのときもっと、という思いはたぶん一生残るのだろう。きれいに癒える種類のものではない。人がいなくなったあとで初めて、自分が渡せたはずのものの形が見えることがある。その遅さは、どうやっても取り返せない。
だから私は、ときどき立ち止まってしまう。
もうこの世にいない人のことを考えながら、いま自分が立っている時間の位置を確かめる。私はもう、あのころの向こう側にいる。彼らの明日だった場所に、いまの私が立っている。その事実だけは、どうしても揺るがない。
そう思うと、残された時間というものも、少しだけ姿を変える。
自分ひとりの未来ではないのかもしれない。もう来られなかった人たちのぶんの静けさを、少しだけ含んだ時間なのかもしれない。そう考えると、今日が前より少し重くなる。重いが、悪い重さではない。
私はまだ、ときどき悔やむ。
あのときもっと何かできたなら、と。
けれど、その悔いを抱えたままでも、いま立っているこの時間を、ただ雑に通り過ぎるわけにはいかないのだろう。なぜならここは、もう戻れない時間の先であり、もうこの世にいない人たちが見なかった未来の側だからである。