人生を謳歌する、という言い方がある。
若いころは、その言葉をもっと晴れやかなものだと思っていた。大きな夢があるとか、誰より先へ進むとか、拍手のまんなかで笑っているとか、そういう絵である。人生を謳歌する者は、つねに自分が舞台の中央にいて、やりたいことをやり、なりたい自分になっているのだと、どこかで勝手に決めていた。
だが、このごろ少し違う気がしている。
人生をほんとうに強く感じる瞬間は、夢だの理想だの、そんな高い看板の下にばかりあるわけではない。むしろ、もっと低い場所、もっとその場しのぎに見えるところへ、急に沈んでいることがある。予定にない笑い、誰かの機嫌に合わせた返事、場の空気を壊さないための頷き、ほんの数秒だけこちらが誰かの望む形になること。そんなものの中に、妙に濃い時間が混じる。
たとえ自分が中心でなくても、である。
いや、中心でないからこそかもしれない。人は自分を押し出しているときより、少し脇へ退いて、場の明るさに身体を寄せているときのほうが、ふいに世界へ触れることがある。誰かが話している、その横で笑う。相手が気持ちよく話せるよう、少し大きめに頷く。望まれている言葉を、半歩だけ先回りして差し出す。そういう迎合めいたことを、自分は長いあいだ、あまり上等でない行いだと思っていた。
けれど実際には、その一瞬に、ひどく生きている気がすることがある。
先日も、ある席で私は、べつに主役でも何でもなかった。ただ向こうの話を聞き、その場に合う調子で笑い、相手の気分がよくなるほうへ少しずつ身を寄せていただけである。あとで冷静に振り返れば、たいして誇れることではない。自分を通したとも言えないし、相手に合わせていただけだとも言える。だが、その時間の中で、私は妙にはっきり、自分の体温を感じていた。
胸の内側で、何かが細かく光っていた。
夢を追っているときのような大きな熱ではない。もっと小さく、もっと現実的で、けれど確かな熱である。この場にいる、自分の声がここで使われている、自分の表情が誰かの空気を少し動かしている、その事実だけで、なぜか人生が急に手ざわりを持つ。たぶん私は、理想の自分になっているから生を感じるのではなく、いまここで何かに参与しているとき、生を感じるのだろう。
迎合、という言葉には、どこか負けた響きがある。
自分を曲げるとか、相手に合わせるとか、主体のなさを含んでいるからだ。だから人は、なるべくそこから離れていたいと思う。私も思ってきた。だが、現実の時間は、そんなにきれいに割り切れない。人に合わせることの全部が屈服ではないし、誰かの機嫌の中へ身を置くことの全部が自分の喪失でもない。その場に同調することでしか見えない景色が、確かにある。
むしろ私は、その景色の中でだけ、自分というものをはっきり感じることがある。
自分を主張しているときより、自分の役割がぴたりとはまった瞬間のほうが、存在の輪郭が濃くなる。おかしな話である。自分を前へ出していないのに、自分をいちばん感じる。だが、生きるというのは案外そういうもので、中心に立つことと、実感を持つこととは、べつべつなのかもしれない。
夢とか、そんな立派な言葉ではないのだ。
もっとささやかで、もっと場当たり的で、もっとあとから説明しにくいものだ。けれど、その説明しにくさの中にこそ、ほんとうの実感は潜んでいるようにも思う。今日という一日を、私はたしかに通り抜けた。その証拠みたいなものが、ときどき誰かに合わせて笑った、あの数秒にだけ宿っている。
人生を謳歌するとは、もしかすると、自分の夢を完全な形で生きることではない。
たとえ自分が中心でなくても、たとえ誰かに迎合することで成り立った時間であっても、その一瞬に自分の全感覚が集まり、これが生きているということだと身体が先に知るなら、それもまた十分に謳歌なのだろう。
私はたぶん、これからもそういう瞬間を軽く見ない。
誇らしげには語れなくてもいい。高い理想に並べられなくてもいい。ただ、その場でふいに人生の総量が手のひらへ乗るような一瞬があるなら、私はそのたび、ああいま全部ここにある、と思うのだと思う。