成功者の机は、いつも片づいて見える。
本の表紙、講演の写真、短く切り出された言葉。そこに並ぶものは、たいてい整っている。朝の習慣、考え方、行動の速さ、人との付き合い方、失敗を恐れない姿勢。そういうものが、明るい照明の下で、いかにも再現できそうな形に並べられている。
勝者の思考、というものは人気がある。
勝者のマインドセット。成功する人の習慣。伸びる人の考え方。どれも、読めば少し強くなれるような気がする。もちろん、そこに学ぶものはあるのだろう。実際に何かを成し遂げた人の言葉には、後からでは作れない重みがある。迷った手、耐えた時間、選び取った順番。そういうものが、どこかに染みている。
けれど私は、ときどき別のことを考える。
敗者の思考も、学べるならば学びたいのである。
何を見誤ったのか。どこで粘りすぎたのか。何を信じすぎ、何を軽く見たのか。逃げるべき場所で立ち止まり、進むべき場所で疑い、準備すべきときに夢だけを見ていた、その細かな手つき。そういうものも本当は、勝者の習慣と同じくらい、いや、ときにはそれ以上に役に立つのではないかと思う。
だが、敗者のノートはあまり表へ出てこない。
出てきたとしても、それはたいてい勝者になった後の敗北である。あの失敗があったから今がある。あの挫折が自分を強くした。そう語れる人は、もうその失敗を物語の一部へ変えることができた人だ。敗北は、最後に成功へつながったときだけ、きれいな教材になる。
ほんとうに沈んだ人の声は、なかなか聞こえない。
失敗したまま戻れなかった人。努力したが届かなかった人。才能がなかったのではなく、時期が悪く、金が尽き、体力が削れ、人に会う気力までなくした人。そういう人の思考は、どこへ行くのだろう。書かれないのか。書いても読まれないのか。それとも、読まれる場所へ届く前に、生活の底で濡れてしまうのか。
成功者とは何なのだろう。
努力した人、才能のある人、諦めなかった人。そう言えば、たしかに聞こえはいい。だが、その横にはいつも、努力しても届かなかった人、才能があっても続かなかった人、諦めなかったために傷を深くした人がいる。彼らの存在を見ないまま成功を語ると、光だけでできた模型の町を見ているような気分になる。
その町には、夜がない。
勝者の言葉は、どうしても強い。結果がその言葉を後ろから支えているからである。同じことを敗者が言えば、負け惜しみに見える。勝者が言えば、哲学に見える。人間は案外、その中身ではなく、言葉の背後にある結果を読んでいるのかもしれない。
だからこそ、成功者の思考を学ぶときには、少しだけ注意が要る。
それは正しいから残ったのか。残ったから正しく見えているのか。本人の力なのか。時代の風なのか。周りの助けなのか。たまたま沈まなかった船の航海日誌を、すべての海に通じる地図だと思っていないか。
私は、勝者の本棚の裏側を見てみたい。
そこにはきっと、表に出なかったノートが積まれている。途中で終わった計画、返事の来なかった手紙、誰にも見せなかった収支表、正しいはずだったのに間に合わなかった判断。そういうものを読めたなら、私たちはもっと慎重に、もっと人間らしく、成功という言葉を扱えるのではないか。
勝者の思考は、明るい部屋で語られる。
敗者の思考は、たぶん閉じた引き出しの奥にある。だがその引き出しを開けずに、成功者とは何かを語るのは、どこか片目で世界を見ているようなものだと思う。
成功者とは、正しい人のことではないのかもしれない。
少なくとも、正しかったことにされた人、ではあるのだろう。その違いを忘れないために、私はいつも、光の当たる机の下に落ちている、読まれなかったノートのことを考えている。