ある日から、私はノートを一冊持つことにした。

表紙には何も書いていない。中身は黒い罫線と、その上に並ぶ正の字だけである。誰かに踏まれた、列を割られた、ささやかな不義をひとつ目撃するたびに、私はノートを開き、ペン先で一画を足す。これが、自分で勝手に立ち上げた「怒りポイント制度」だ。

世の中の不義は、放っておけば私の中にたまるだけだ。

胸のあたりに、行き場を失った熱がじっと沈んで、夜になると寝つきの悪さに変わる。これでは、不義のほうが私を倒していることになる。だから私は、起きたことをポイントに変える仕組みをつくった。点数化された怒りはもう、ただの感情ではない。それは私の側に積まれた、別の形の燃料である。

「すべての不義に、鉄槌を」と、私は朝の鏡に向かって口の中で言う。

大げさな鉄槌を振り下ろすわけではない。腹を立てた相手に直接ぶつけるのでもない。私の鉄槌は、もっと地味な形をしている。列を割られた日には走る距離を一キロ伸ばす。失礼なメールを受けた日には、その分だけ自分の仕事を一段ていねいにする。そういう、ささやかな相殺だ。怒りが点になり、点が動作になり、動作が私の側の蓄積になる。

私は、怒りを力に変えていく男であろうとしている。

ところが、ノートが厚くなるにつれて、別のことに気がつきはじめた。

最初のうちは、不義のほうが先にあって、ポイントはそれに応じて増えていた。けれど数か月すると、順番がときどき逆になる。点を足したくて不義を探している自分がいる。電車の中で、列の中で、信号待ちで、私はうっすら誰かの粗を待っている。鉄槌のほうが先に握られていて、それを下ろす対象が、どこかに居てくれないと困るのである。

そう気づいた夜、私はノートを閉じて、しばらく天井を見た。

怒りを燃料にするというのは、悪い考えではない、といまも思う。胸に残してくよくよするより、外向きの動作に変えてしまうほうが、健康にも建設的にも違いない。けれど、その仕組みを使う者の側にも、知らないうちにべつのねじれが入る。点数化された怒りは扱いやすいかわりに、点数のほうが、私のまなざしを少しずつ調整しはじめる。

それでも私は、たぶんこの帳簿を捨てない。

鉄槌は下ろし続ける。怒りは力に変え続ける。ただ、ノートを開くたびに一拍だけ、いまそこに書こうとしているのが本当の不義なのか、自分が不義として扱いたかった出来事なのか、確かめるようにしている。

その一拍のあいだだけ、私はまだ、この制度の主人でいられる気がしている。