歩いていると、もう使われていない構造物が、消されないままそこにあるのを見つけることがある。古い水門、用途が変わった建物、シャッターが降りたままの店。役目を終えたものを、町はすぐには片付けない。
その残し方は場所によってかなり違う。小さな記念碑だけが立っているもの、名物や地名としてかたちを変えて生き残ったもの、まだ建物はあるのに人の流れから外れて静かに閉じていくもの。
川崎大師の門前町、山手線の鶯谷、福井の東尋坊。題材も時代も土地柄もばらばらだが、3 つの町を歩く案内の中に、古い役目をどう抱えているかという同じ問いが、繰り返し出てきていた。
役目を終えたものを、町はすぐには消さない。
順に書いてみたい。
1. 川崎大師 — 幻の大運河と、続いている門前町
川崎大師駅で降りると、南口の脇に「京急発祥の地」の記念碑が立っている。京急電鉄は川崎大師の参拝客を運ぶための大師電気鉄道として 1899 年に開業した、関東で現存する最古の電気鉄道だという。いまは通勤電車として工業地帯を結ぶ目立たない支線になっているが、起点はあくまで参拝輸送だった。鉄道網の出発点を、駅前の小さな碑が覚えている。
そこから表参道へ入ると、だるま屋、飴屋、饅頭屋の店が連なる仲見世通りが続く。150m に 30 軒ほど。だるまは、江戸時代の疫病が流行ったときに家に置くと守られたという伝承から名物になっている。当時の信仰が、土産物のかたちに変換されて残り続けている類のものだ。境内には、八角形をした珍しい五重塔や、健脚祈願のために水をかける遍路大師尊像などが並んでいる。
歩いて少し離れたところに、川崎河港水門という大きな門がぽつんと立っている。大正末から昭和初期に作られた、国の登録有形文化財。塔の頭頂部には、当時の川崎の名産だった梨・葡萄・桃のかごの彫刻がのっている。これは戦前に構想された「水の都川崎」のための大運河の名残らしい。川崎区を対角線に貫く運河を掘り、そこに港と工場と社宅を並べる、という都市の構想だった。
計画は完成しないまま、戦時体制の中で 1943 年に廃止になり、水門と舟溜まりだけが残った。誰もこの水門を運河の入口として使ってはいない。それでも撤去されずに、彫刻つきの大きな扉として町の片隅に立ち続けている。
明治の鉄道開業の碑、江戸の疫病避けから来た土産物、大正の幻の運河の門。役目を終えたものと、変形して残ったものと、いまも商売として続いているものが、同じ門前町の中に並んでいる。
2. 鶯谷 — 火除け地から料亭、そして連れ込み旅館へ
山手線でもっとも乗降客が少ない駅は、新宿でも東京でもなく鶯谷だという。1 日 2.4 万人。新宿の 78 万人と比べると、35 分の 1 弱になる。住宅街にあり、ほかの路線との乗り換えもないので、利用者がもともと少ない造りになっている。
駅の西と東で、町の顔ががらりと変わる。西側は上野台地の上で、寛永寺、徳川家霊廟、博物館・美術館が並ぶ。東側は跨線橋を渡った先からラブホテルの電飾が、夜になると眩しく光る。台東区にお住まいの案内人の方は、これを「山手線でいちばんはっきりした聖と俗の対比」と紹介していた。
この東口の風景は、最初からこうだったわけではない。戦前、ここは寛永寺の火除け地として空けられていた土地だった。それが明治期になると、伊香保や塩原から温泉を引いた料亭が立ち並ぶ「東京随一の料亭街」に変わる。1941 年には太宰治と山岸外史の結婚披露宴もここで開かれている。
戦後は集団就職向けの簡易宿泊街となり、上野駅前から修学旅行旅館が移ってきて旅館街になる。東京オリンピック後に客足が落ち、そのまま「連れ込み旅館」へ業態が変わって、いまの姿に至った。火除け地、料亭、簡易宿泊、連れ込み旅館。建物が代わっても、ここが「夜に人が泊まる町」であるという性格は、ずっと変わっていない。
すぐ近くには、元禄年間創業の絹ごし豆腐の店・笹乃雪や、1856 年創業で 3 名以上の予約か紹介者でしか入れない居酒屋・鍵屋が、いまも残っている。脇には、正岡子規が 34 歳で亡くなるまで暮らした子規庵がある。聖と俗が分かれているのではなく、聖と俗のあいだに、古い商売の店と古い文人の住居がはさまっている町だ。
役目が何度も入れ替わったが、建物が完全に消えたわけでも、土地の性格が無関係なものに切り替わったわけでもない。前の役目の輪郭が、次の役目の中にうっすら残っている。
3. 東尋坊 — 動線から外れて静かに閉じていく商店街
福井県坂井市の東尋坊は、海岸線 1km にわたる柱状節理の絶壁が観光名所になっている。柵のない剥き出しの自然で、自殺の名所としての側面も知られ、近くの電話ボックスには思いとどまった人のために 10 円玉が置かれているという。
ところが、海岸へ向かう商店街を歩いてみると、入口の食事処から閉店していて、シャッターが錆びついている店が続く。2023 年には観光交流センターも閉鎖になり、トイレも撤去された。1948 年の空中写真ではまだ建物がまばらだった一帯が、1962 年の自家用車普及とともに急発展し、個人店主体の門前町のような姿になっていた。それが、いま静かに閉じつつある。
案内する方が指摘しているのは、これが店主の努力不足というよりも、観光客の動き方が変わってしまったことの結果だ、ということだった。かつての団体旅行は、バスから降りるとそのまま商店街を通って海岸まで歩く道筋が決まっていて、土産と食事は商店街で済ませる前提だった。いまは大型駐車場が整備されたことで、車で来た人は商店街の入口を通らずに海岸へ直行できる。動線から外れた店舗が不利になるのは、ある意味で必然だった。
そこに、500 円の駐車料金と、地上 55m の「東尋坊タワー」の 500 円が重なる。タワーは 1964 年建設で、地形の関係で肝心の崖の部分が見えないという口コミがついていて、合計 1000 円で二度目に来てもらうのは難しくなっている。
それを受けて、2020 年から始まっている再整備の方針は、商店街を建て直すというより、駐車場の一部を撤去して、コンクリートを減らし、緑を増やし、人が滞在できる空間にする、というものらしい。繁忙期以外は駐車に余裕があるというデータが裏付けになっている。「車を止める場所」から「自然を感じる場所」へ役目を入れ替え、崖を見て帰る観光地から、周辺を含めて滞在する場所へつなぎ直す。
役目を終えた商店街を維持するのではなく、駐車場という別の構造物の方を間引いて、その下にあった景観を表に出す。残し方の方向が、川崎や鶯谷とは少し違って見えた。
まとめ
3 つの場所を並べると、役目を終えたものの残り方が、町によってかなり違う。
| 場所 | 残っているもの | 残し方 |
|---|---|---|
| 川崎大師 | 京急発祥の碑、幻の運河の水門、江戸期のだるま | 一部は文化財として、一部は名物に変えて残す |
| 鶯谷 | 火除け地・料亭・簡易宿泊・連れ込み旅館の地層 | 役目を塗り替えながら同じ土地で続ける |
| 東尋坊 | シャッター化した商店街と大駐車場 | 役目を終えた構造物を間引いて景観を戻す |
共通しているのは、町は古い役目を抱えたまま立っているということだった。完全に消して更地にすることはあまりなく、碑や水門としてかろうじて残したり、名物として変形させたり、業態を入れ替えながら同じ土地を使い続けたりしている。鶯谷のように業態転換で建物を使い切るやり方もあれば、東尋坊のように、いま立っているものをむしろ間引いて、もっと前の景観に戻す方向もある。
そう考えると、町を歩くというのは、いま誰かが使っている店や駅だけを見て歩くことではないのかもしれない。脇道に入ったところにある、誰も使わない大きな水門や、業態が何度も変わった土地の痕跡や、人の流れから外れて閉じた商店街にも、その町が抱えている時間の厚みは残っている。私が歩いていて気持ちのよい町と、少しさみしくなる町の違いは、新しい店の多さよりも、古い役目をどう抱えているかの差にあるのではないか、という気がしている。
参考にした動画
- 川崎大師駅周辺さんぽ:京急発祥の地・仲見世通り・幻の大運河水門 — https://www.youtube.com/watch?v=ck9Jr-xvEJE
- 鶯谷の歴史散策(山手線最少乗降客駅の聖と俗) — https://www.youtube.com/watch?v=qGZbrXXiRvQ
- 東尋坊周辺商店街シャッター化と観光地再整備の現場 — https://www.youtube.com/watch?v=x6X8ghTijnI