土の上を裸足で歩いてみて初めて、自分が普段どれだけ足元を見ていなかったかを思い知る人がいる。 新聞の予想印を脇に置いて、まずパドックの馬の体を眺めて回る人がいる。 数学の問題を解こうとして、計算の前にコップを傾けて水を入れ、目盛りで体積を量ってしまう人もいる。

題材も場所もばらばらだが、底にひとつ共通する手つきがあるように見えてくる。「答えに辿り着く前に、まず対象に体を当ててみる」というやり方。私はこの数日、その手つきが気になっていた。

なお最初の話には裸足での歩行が出てくる。足のかたちや皮膚の強さ、関節の状態は人それぞれで、ここで触れる体験は万人の正解ではない。違和感や痛みが続くようなら、自分で抱え込まずに専門の方に相談してほしい、ということだけ先に置いておく。

答えは外側にしかなくて、こちらが当てに行かないと、なかなか戻ってこないらしい。

順に書いてみたい。


1. 林道を裸足で — 足の裏が、地面を読む

最初の題材は、ある裸足歩行の靴を作っている方の案内で、山の案内人の方と一緒に林道を裸足で歩く動画だった。

私はその動画を見て、まず「足の裏」というものについて自分が何も知らなかったことを知った。動画では、足の裏には骨だけで二十六本あり、その間を細かい筋肉が編んでいて、体じゅうで一番たくさんの筋肉が集まっている場所だ、と紹介されていた。靴を脱いで土を踏むと、その骨と筋肉と皮膚が、ようやく地面の形に沿って働き始める。

濡れて滑りやすい木の根の上に立ったとき、靴を履いていれば「ここで滑ったら危ない」と頭の中で先回りして体が固くなる。ところが裸足だと、足の裏が「ここは少し丸い」「ここは沈む」と先に答えを返してくれる。頭で考えて構える時間が短くなって、結果として体は柔らかく落ち着く。案内の方が「足元に集中するから、頭の中で同時に走っているいくつもの心配事のほうがむしろ落ち着く」というようなことを言っていた。集中するから怖くなくなる、という順序になっている。

足の裏がちゃんと働いていれば、地面は怖い場所ではない。

ここで面白いのは、装備で機能を足していくことが、足の裏が本来持っていた働きを眠らせてしまう、という話が一緒に出てきたことだ。靴底が厚くなり、踵に衝撃を逃がす材料が入り、ねじれを抑える作りが組まれていくほど、足の側は「外から守られている」状態になる。守られている分、自分で読まなくなる。動画の中ではこれを、車を自分の足で動かすのと、座って運転するのとの違いに重ねていた。

帰り道に山菜を採る場面が出てきて、こちらも同じ手つきだった。案内の方は、「現代の人は『食べたいもの』を探すが、ここでは『食べられるもの』を探すんですよ」と言う。前者は頭の中の決まった品から入って、合わなければ手ぶらで帰る。後者は目の前の植物に手をかけて、苦みを舐めてみるところから始まる。答えはやはり外側にあって、こちらから当てに行く格好になっている。


2. パドックで馬を見る — 新聞の前に、自分の目で

二本目は、長年競馬のパドックを見てきた解説者の方が、新馬戦・古馬戦の馬体をどう読むかを語るインタビューだった。

その方は、パドックでまず「一目で器があるかどうか」だけを見るという。器というのは骨格や体つきの大きさのことで、何頭かに絞り込んでから、ようやく顔、胸、尻、関節、爪、と細かく見ていく。胸の筋肉が尻より目立っていて、前脚で土を掻くような走り方をしそうな馬は、土の上に向く。後ろ脚が伸びやかで、瞬発よりも一定の速さで距離を運べそうな馬は、芝の長距離向きだ、というような読み方をしていく。

注目したのは、「踏み込み」という見栄えの良い言葉について、その方が一定の距離を取っていたことだ。「踏み込みが良い」と言われる歩き方は、見栄えとしては美しい。しかし、踏み込みの深さは体型と体調の話で、それが必ずしも「強い」「速い」を意味するわけではない、と話していた。流行りの言葉や見栄えで判断していると、競馬新聞に書かれた印と同じことを繰り返すだけになる。

新聞には答えがないので、自分の目でパドックで見つけるしかない。

この方は「気配」という言葉についても慎重だった。「落ち着いている」「うるさい」と書かれるけれど、その馬にとって普通の状態がどちらなのかは、毎回見ている人にしか分からない。寒い時季の発汗は気にしたほうがいいが、いつも汗をかく馬もいる。だから、誰かが用意してくれた言葉を持ち込むのではなく、その馬を毎回見て、自分のなかに「この馬の普通」を作っていくしかない、という。

これは結局、最初の話と同じ手つきになっている。新聞、印、決まり文句——いずれも、対象から少し離れたところで作られた要約だ。要約だけを読んで馬券を買う人と、要約を脇に置いて自分の目で馬体を見ている人とでは、入っている情報の量が違う。当てに行っているかどうかの差が、ここにも出ている。


3. コップを傾けて水を入れる — 数式の前に、まず量る

三本目は、ある教育系のテレビ番組で、数学解説者の方が出題する難問を出演者が解く回だった。

問題は、口の半径が二十センチ、底が十センチ、高さ三十センチの円錐台のコップを傾けて、水がこぼれるぎりぎりまで入れたとき、水の体積はいくらか、というもの。出演者は紙と鉛筆ではなく、小さい同じ形のコップを取り出し、目盛り付きの細長い量器(理科室にあるあれ)で水を入れていく。傾けて、ぎりぎりまで水を満たして、その量を読む。出てきた答えは百四十四ミリリットル。

そのあと解説者の方が、円錐台から斜めに切られた頭の部分を引いていく解き方を示し、計算上の答えは約百五十四ミリリットルだ、と説明する。実測と十ミリリットルずれている。

ここで普通なら、「実測には誤差がつきものなんだね」で話は終わる。ところが番組では、「数学は間違わないはずだから、ずれている原因は道具の側だ」と進んでいく。実際にその量器で五百ミリリットルの容器を測ってみると、表示が四百九十ミリリットルになった。十ミリリットルずれていたのは、計算ではなく、量るほうの目盛り側だった。

数学は間違わない。ずれているなら、まず道具の方を疑う。

このオチは、最初の二つと逆方向のことを言っているように見える。最初の二つは「対象に直接当てに行け」という話だったのに、三本目は「数学のほうが正しくて、当てる側の道具がずれていた」と言う。

ただ、よく見ると、ここでも答えは外側にしかない。「実測したら計算と十ミリ違った」という事実が外側から戻ってきて、初めて「道具がずれている」ということに気が付ける。紙の上で計算だけしていたら、目盛りがずれていることに最後まで気が付かない。解説者の方は「解けない問題は実際にやる、これが数学の起源だ」と言っていた。実際にやってみて初めて、計算の答えと突き合わせができる。式と目盛り、両方を持っていることが大事で、片方だけだと、ずれの正体が見えない。


まとめ

足の裏で土を読む人、目で馬体を読む人、目盛りで水を量る人。三つを並べると、共通しているのは、「答えを取りに行くときに、必ず自分の体のどこかを対象に当てている」ということだった。

何をどう当てるか当てない場合に起きること
林道足の裏で土を踏む装備に守られて、地面を読まなくなる
パドックの馬目で馬体を見て、その馬の普通を覚える新聞の印と同じ判断を繰り返す
コップの水傾けて、ミリリットルで量る道具がずれていることに気付けない

三つに共通しているのは、当ててみたあとで「これは違うぞ」と気が付ける、という点だと思う。靴に守られていれば、地面の冷たさにも凸凹にも気付かなくていい。新聞の印に従えば、自分の目とのずれを抱え込まなくていい。式だけ立てていれば、量るほうの道具を疑わなくてもいい。

裏返せば、当ててみると、こちらの想定がずれている可能性が一気に立ち上がってくる。当てる行為は手間がかかるし、自分の想定が崩れる場面に何度も立ち会うことになる。それでもなお、当ててみないと、答えが取れない領域がある、ということなのだろう。

最近の私は、何かを判断する場面で、最初に紙の上の数字や誰かの要約を読みに行きがちで、対象そのものに体を寄せる、という前段を省きやすい。三つを並べて感じたのは、その省略が積み重なると、知らぬ間に道具のずれを抱えたままで結論を出してしまう、ということだった。

たまには紙を脇に置いて、足や目や手のほうから入り直してみる時間を作ったほうがいい、のかもしれない、という気がしている。


参考にした動画