生きていたって、そういいことはない、とふいに思う夜がある。

たいていは帰り道である。店じまいのあとの街は、昼よりも正直で、くたびれた看板や、ひびの入った歩道や、閉じたシャッターの薄いへこみまで、妙に見えすぎる。そういうものを見ていると、人の一日というのも案外これに似ているのではないかと思う。なんども打たれ、へこみ、表面だけを直して、また明るい場所へ出ていくのである。

私もそうやってきた。

人に言われたこと、うまくいかなかったこと、もう戻らないもの。数えはじめればきりがない。ひとつ越えるたびに、こんどこそ少しは丈夫になるのだろうと思ったが、実際にはそうではない。ただ、傷の置き場所がうまくなるだけだ。痛くないのではない。見えにくくするのが少しうまくなるのである。

それでも、どういうわけか、まだ歩いている。

その理由を、前は惰性だと思っていた。朝が来るから起きる、腹が減るから食べる、仕事があるから出る。そのくり返しが身体に染みついているだけだと思っていた。けれど、ある晩、終電近いホームで、ベンチに座る若い女の人を見て、少し考えが変わった。

その人は、べつに泣いていたわけではない。ただ、膝の上で両手をきちんと重ねて、まるで壊れものの箱を抱えるみたいな姿勢で、じっと線路の暗さを見ていた。顔色のわるい駅の灯りの下では、人はときどき、自分の中にあるひびまで照らされてしまう。私はその人の横顔に、昔の自分によく似たものを見た。何も言えず、何も言われたくなく、それでもこのまま消えてしまいたいほど静かな顔である。

そのとき、私ははじめて、自分がまだこちら側に残っている理由を、うすく知った気がした。

立派なことではない。だれかを大きく救えるとも思わない。ただ、同じように何度も打ちのめされて、それでもどうにか今日まで来た者にしかわからない暗がりがある。そこでは、ずいぶん正しい言葉でも役に立たず、たったひとつの小さな親切や、黙ってとなりに立つ気配のほうが、よほど人を引きとめる。

もし私が明日も生きているなら、その暗がりの中で、足もとだけでも照らせる者になりたい。

大きな灯台ではなくてよい。遠くから見える救難信号でもなくてよい。雨あがりの段差をひとつ見せるくらいの、小さな灯でいいのである。自分みたいな者が、自分みたいな者を、ほんの少し先まで連れていけるなら、それでやっと、打ちのめされつづけた日のぶんだけ、意味ができる気がする。

だから私は、ときどき思う。

生きていたって、そういいことはない。

けれど、いいことがないままでも、誰かを沈ませないための灯くらいは持てるのではないか。

そしてその灯は、何度も暗いところを歩いてきた者の手のほうが、案外うまく守れるのかもしれない。