朝6時52分に厨房の電気が灯る八王子の中華屋。こんぴらさんに大漁祈願をすませて瀬戸内へ船を出す漁師。五十年かけて沖縄やんばるの山に熱帯果樹を植え続けてきた農園主。三つの仕事は、それぞれ別の時間の単位で動いている。1日、1年、半世紀。

それでも、共通している手つきがある。「ここで、もう一度始める」という、その朝の構えだ。

開店前の仕込み、出漁前の点検、苗の植え替え。最初の客が来る前、最初の魚が網にかかる前、最初の実がなる前にやっている地味な動きの方が、その仕事を続けている人の姿をよく映しているような気がする。

続いている仕事には、毎回「始まり」が組み込まれている。

順に書いてみたい。


1. 6時52分の厨房 — 八王子・大進亭、大将の朝

八王子に1992年から続く中華料理店「大進亭」の朝は、6時52分に始まる。店の大将(61歳)と奥さん、息子、それに高校生のころから働いてきたベテランのスタッフの方(27歳)。家族経営の店で、開店までの4時間に、その日の準備が並行して進んでいく。

もやしを洗い、生姜とネギで取るスープを仕込み、杏仁豆腐にバニラエッセンスと練乳を入れる。タルタルソースに玉ねぎを1キロ刻む。米は4升ずつ3回炊くので合計10キロを超える。一人ですべてを覚えていられる量ではない。誰が何を担当するか、長年の取り決めで動いている。

カウンター6席、テーブル12席、座敷24席。出てくるマーボー丼は器から溢れていて、「お持ち帰りパック」が20円で常備されている。半分以上の客が食べきれずに持ち帰る、と笑う大将は、コロナ明けに5年ぶりに矢沢永吉のコピーバンドのライブを再開した。手首にはサポーターが巻かれていて、本人は職業病だと言う。

「米と油とキャベツが上がって、いい時代じゃなくなった」「から揚げ定食は、定食で100円取れるか取れないかぐらいの採算」と率直に言いながら、それでも400グラム×2枚=800グラムのから揚げを1220円で出し続けている。

インタビューの結びに、その大将はこう言う。「健康で元気で、仕事も遊びも続けられたら一番いい」。続けるための準備が、朝6時52分の電球の下にある。


2. 船底のペンキと、こんぴらさんのお札 — 瀬戸内・初漁の朝

瀬戸内の小島で流し刺し網漁を続けている漁師の方の、2027年最初のサワラ漁の朝が、もう一つの動画にあった。

出漁前にやることが多い。造船所で船底にペンキを塗り直し、プロペラ回りを掃除する。ネットローラーにグリスを塗り直す。発泡スチロールの箱と三脚を積み込み、窓に曇り止めを塗る。氷を30キロ積む。こんぴらさんに大漁と安全を祈願し、もらってきたお札を船内の棚に貼る。漁に出る前に、ここまでが一通りの所作になっている。

サワラは「春を告げる魚」で、産卵期に瀬戸内へ回遊してくる。網の全長は1.5キロ、高さは30メートル。それを潮に乗せて流し、2時間ほど待ってから繰り上げる。1匹目が来るまでは不安と高揚が同居している、と本人が言う。

待っているあいだに、焼き鳥の炭を起こし、おにぎりを食べる。「ガッちゃん」と呼ぶ、網がプロペラに巻き込まれないための器具を下ろし、いよいよ網繰りを始める。2日間でマダイは120匹近く、サワラは40〜50匹。大きいサワラは兄が高松の市場へ運び、「ご祝儀相場」の高値のところに立てて売る。

その日に1匹目を引き当てたのは「春を告げるサワラ」だったわけだが、漁の朝の中心は、魚を獲ったことではなく、その前のペンキ塗りやグリス塗りの方にある気がした。年に一度の初漁の朝にも、毎年同じ手順がある。そこを踏まないと、その年が始まらないらしい。


3. 五十年かけて植え続けた山 — やんばる、ある農園主の半世紀

沖縄本島の北、やんばるの国頭郡に、ある方が一人で立ち上げた熱帯果樹の観光農園がある。約55分かけて一周する間に、グアバ、水レモン、モンステラ、ランブータン、ブラジルナッツ、ブラックサポテ、サポジラなど、世界各地から集められた熱帯果樹が次々と現れる。生きた植物図鑑のような場所だ。

「いつ始められたんですか」と問われて、その方は50年前の幼少期のやんばるの記憶から話を始める。一度離れていた場所に戻ってきて、独学で熱帯果樹の栽培を学び直し、半世紀かけて今の農園を作ってきた。動機を「子供のころのやんばるが頭の中にずっとあった」と言う。

ミツバチが受粉を担い、コウモリが種を運ぶ。人が植えた苗のうち、どれがいつ実るか、どれが種を落として勝手に増えるかを、その方は記憶しているというよりは、毎日見ているから分かる、という言い方をしていた。

50年というのは、1日6時52分から動く大進亭の朝に直すと、ざっと一万八千回分の朝だ。1.5キロの網を流す初漁の朝で数えるなら、五十回分。それくらいの繰り返しの結果として、いまの山の景色がある、ということになる。一気に立ち上がった農園は、たぶんない。


まとめ

三つに共通しているのは、「始まりが組み込まれている」ということだろうと思う。

仕事始まりの単位「最初にやること」
八王子・大進亭1日6時52分に電気を点ける
瀬戸内の漁1年(漁期)船底ペンキとグリスとお札
やんばるの観光農園半世紀子供のころに見た山に戻る

毎日始まる仕事、年に一度始まる仕事、生涯に一度だけ始まる仕事。時間の単位は違うが、どれも「もう一度ここから始める」という地味な工程を最初に置いている。続いている仕事ほど、その始まりの所作を省略しないように見える。

逆に言えば、続けるのが難しい仕事は、始まりの所作を端折ってしまった仕事なのかもしれない、という気がしている。網にいきなり手をかけても、ペンキを塗らずに出した船は、たぶん帰ってこられない。


参考にした動画