公園の芝生にうっすら踏み固められた近道、揺れたまま戻ろうとしない太極拳の片足、ノックや素振りで教えてもらえないまま二塁打の日本記録を作った打者。題材も世界もまるで違うのだが、共通している形がある。誰かが上から「ここを通れ」「こう立て」「こう振れ」と先に引いた線より、現場の側で勝手にできあがった線のほうが、結局そこに残っている、ということだ。
上から線を引く人と、現場で形を見つける人がいて、後者のほうがいつも少しだけ正しい。これはたぶん、何かを長く続けている場所にはどこにでもある話なのだろう、と思う。
正しい線は、上からは引けない。足や身体のほうが、後からそれを描く。
順に書いてみたい。
1. 公園の芝生 — 図面にない近道
「リザイアパス(Desire Path、欲望の道)」という呼び方があるらしい。公園や大学のキャンパスの芝生に、いつのまにか細い土の道ができていて、もとの図面にはない近道として歩かれている、あの線のことだ。都市散歩のショート動画にこの語が出てきた。
都内のある公園では、地図上の正規の散策路が遠回りのカーブを描いていて、利用者はその途中の芝生を素直に横切ってしまう。撮影されている数分のあいだに三人がその近道を通った、と動画を上げた方は記録していた。京都の御所では、砂利道を走りにくいと感じた自転車たちがいつのまにか少し緩く曲がる細い踏み跡を残していて、引かれている道よりも自然な弧を描いている。
象徴的なのはアメリカ・オハイオ州立大学の千葉広場の事例だった。もとは芝の四角い広場だった場所に、学生たちが何年もかけて斜めに横切る土の道を作り、大学は最後にそこを舗装した、というものだ。同じキャンパスに、リザイアパスを「克服した(無視して芝のままにした)」場所と、「屈した(舗装した)」場所が共存している、と動画を上げた方は言う。私はその「屈した」という言い方に、少し笑ってしまう。屈したというより、ようやく正しい線が引き直されただけのこと、と言ったほうが近い気がするからだ。
道を描くのは、最初は図面のほうではないらしい。何度も通る足のほうだ。図面の側は、足が引いた線をなぞって、あとから正式に書き直しているだけだ。動画の冒頭で出てきた都内の公園も、いまはその近道がそのまま舗装され直されていた。
2. 揺れる片足 — ある先生の「バランスを取らない」
太極拳の日本チャンピオンであるという先生が、ロシア由来の武術であるシステマの道場に招かれた回がある。黒帯になったばかりのある俳優の方や女優の方々が、特別講師であるその先生から、一見なんでもないように見えるひとつの動きを習う。
「軽くしゃがんで、右足を後ろに差し込む。床に足はつけない。そのままの形で立ち上がる」。文字に書くと簡単で、公園で見かける高齢者の体操の延長にしか見えない。それなのに、その場で試した人は一人も静かに立てない。誰がやってもふらふらと揺れる。
その俳優の方が「下に意識を置いて立とうとしてるんですけど」と尋ねると、その先生はにっこりして、こう答えていた。「バランスを取らないことです」。傾いたら傾いたまま、戻そうとしない。「揺れに感謝してしまうと、どんどん振幅が大きくなる」。揺れにこちらが反応して何かしようとした瞬間に、片足軸は崩れる。
ここで指示されているのは、「上から正しい姿勢を作りに行かない」ということだ、と私は受け取った。意識のほうが先に答えを持ってしまって、それに身体を合わせに行こうとすると、揺れは増幅される。逆に、揺れの中に身体を置いたまま、こちらは何もしない。そうしているうちに、身体のほうが勝手に静かな立ち方を見つける。
七十代八十代の参加者でも数回でできるようになる、とその先生は付け加えていた。上から命令する習慣がそもそも薄い人ほど、この立ち方には早く入れるのかもしれない。修正したくなる癖の少ないほうが、結果として安定する、というのは、しばらく自分でも試してみたくなる話だった。
3. 教わらない打撃 — ある元名選手が語る、もう一人の元打者
中日ドラゴンズで二塁打の日本記録を持つ、ある安打を量産した元打者について、同じく中日で監督・選手として歴史を作ったもう一人の元名選手が、自身のチャンネルで静かに語っている回がある。
その元名選手の口ぶりは抑えているのに、断定の強い言い方だ。「バットを持たせたら、あの選手の右に出るドラゴンズはいない」。続けて、その元打者の打撃が独特だったのは、コーチに教わって形を作ったのではなく、自分で振っていくうちに自分の形を持ってしまった、その「形を持つ」ということ自体が稀だ、と語る。長距離砲ではないのに二塁打が異常に多いのは、ホームランを狙う形ではなく、自分の身体に合った振りを貫いたからだ、と。
その元打者は、入団当初は高卒でショートに置かれていた。肩が弱く、内野の前進守備のような位置でしか守れない、というかなり変わった配置だった。守備位置はセカンド、サードへとチームの都合で動かされ、最後は主軸打者となる。場所はころころ動かされても、振り方だけは動かさなかった、ということだろう。
打撃の形は、外から教え込むものではないらしい、とその元名選手は繰り返し言う。誰かが図面のように「ここをこう動かせ」と上から指示しても、選手の身体は結局それを受け付けない。自分で振り続けているうちに、ふと「これだ」というところが見つかる。見つかったその線は、何年経ってもブレない。それがその元打者の打撃の中身だった、というのがその元名選手の見立てだった。
監督として三年連続最下位だった時期についても、その元名選手は「自分のやろうとしたことをやった結果だから、原因を勉強すれば二回目のチャンスはある」と冷たくない言い方で締めていた。打者として線を見つけた人は、監督としても自分で線を見つけ直す必要がある、というだけのことなのだろう。
まとめ
三つを並べてみると、形がよく似ていることに気づく。誰かが先に図面を引いて「これが正しい線だ」と上から渡したものは、現場でほとんど使われない。公園の正規路は無視され、「下に意識を置け」という常識的な助言は片足軸を崩し、コーチが描いた打撃の形はその選手の身体に乗らない。
代わりに、線は現場の側から引かれる。何度も歩いた足が芝に踏み跡を残し、揺れたまま戻ろうとしない身体がそこに静かに立ち、何万回も振った腕が自分にとってだけ正しい打撃の角度を覚える。後になって、上のほうがそれをなぞって舗装したり、「あれが正解だった」とインタビューで振り返ったりする。「克服した」のではなく「屈した」場所、として残るのは、たぶんそういう場所のほうだ。
「正しい」というのは、上から指定するものというより、現場の側で何度か繰り返したあとに、ようやく見えてくる輪郭なのかもしれない。引きたいときに引けるものではなく、引かれてしまったものを後から認める、というのが、私たちにできる仕事の限界なのではないか、という気がしている。
参考にした動画
- リザイアパス(欲望の道):歩行者が作る「設計者の意図しない道」 — https://www.youtube.com/watch?v=JEEbMpJQXhQ
- 太極拳の「バランスを取らない」原則:日本チャンピオン直伝のアクション応用編 — https://www.youtube.com/watch?v=5x6Hn6PhGGY
- ある元名選手が語る、二塁打日本記録を持つ元打者論 — https://www.youtube.com/watch?v=PtTNBXpAqJ0