「これは申しておきたいんですけどね」

集会室の長机の、向かいの端のほうから、その声は今日も上がった。私はノートを開いて、ボールペンの先で、議題二つ目の頭にしるしを付ける。

私の住んでいる「コーポひこばえ」は、五十戸ほどの古いマンションで、管理組合の総会は年に一度ある。今年は順番で、私が記録係を引き受けた。誰もやりたがらない仕事だが、引き受けてみると、人の話を聞きながら一字も漏らさず書き残すというのは、思っていたよりも、はるかにたいへんだった。

声を上げたのは、八階の篠田さんだった。

ことの起こりは、共用ロビーに置いてあった折りたたみカートが、先週、ひとつ無くなったという話である。古いものだから盗難届を出すほどでもないが、防犯カメラを確認したところ、そのカートを最後に使っていたのが、篠田さんだった。会長は控えめに、「念のため、お返しいただけませんか」と切り出した。

「これは申しておきたいんですけどね」と篠田さんは続けた。

「私は、ちゃんと、もとの場所に戻しました」

会長は、もう一度カメラの映像を、と言いかけたが、篠田さんは遮った。

「それを、別の誰かが持って行ったのなら、それは管理人の山岡さんが、夜のあいだ、見回りをきちんとしていない、ということでしょう」

私はノートに、篠田さんの発言の要旨を書いた。

「篠田氏:もとの場所に返却済みと発言。以後の紛失は管理側の責任と指摘」

書きながら、頭の中で、もうひとつのノートが動いていた。書かないノートである。そこには、こう書かれていた。今年で四度目、と。

私が記録係になる前から、私はこの人をこの集会室で見てきた。エレベーターの定期点検で半日使えなかった年。私は、ちゃんと、管理会社から案内を読んでいた。植え込みの剪定が遅れた年。私は、ちゃんと、隣の人にも声をかけた。駐輪場の番号が混ざった年。私は、ちゃんと、自分のところに止めていた。

口の中で、「私はちゃんと」が何度反芻されたか、もう数えきれない。

不思議なのは、本人の中で、その言葉に嘘が無いことだ。

篠田さんは、たぶん、ほんとうに、自分は何も間違っていない、と思っている。すべての出来事に対して、自分はちゃんとやった側にいて、何かが起きるとすれば、それは誰か別の人間が、自分のように丁寧でなかったからだ、と思っている。その確信が揺らがないから、目つきが、こちらが何を言っても、まっすぐで澄んでいる。澄んだ目で、ほかの誰かを責める。

「もうよろしいでしょう」と会長は言った。

「では、紛失したカートは、当面、紛失扱いとして次回までに買い直す方向で——」

総会は、そういう、灰色の決まり方で進んでいった。誰も篠田さんを叱らず、誰も篠田さんに同意もしなかった。長机を囲む十二人の住人の顔には、一様に、薄い疲れが浮かんでいた。叱れない疲れである。

総会が終わり、私は議事録の下書きを抱えて、エレベーターに乗った。

ドアが閉まる直前に、篠田さんが乗ってきた。八階と七階で、行き先が近い。狭い箱の中で、二人きりになった。気まずさを破るように、篠田さんがにこやかに言った。

「いやあ、長くなりましたねえ。記録係って、大変でしょう」

「ええ、まあ」と私は答えた。

「ああいう会議でね、いちいち言わなくていいことを言う人がいるのが、本当にいけませんよね。みんなの時間を奪う。あなたみたいに、黙ってちゃんと書いてる人が、一番ご苦労されますよ」

私は、何も答えなかった。

七階で扉が開き、私は会釈して降りた。背中越しに、篠田さんの「お疲れさまでした」という、晴れやかな声が聞こえた。

部屋に帰って、私はノートを机に広げ、清書を始めた。

要旨は淡々と書いた。事実だけを残し、声色や表情は書かなかった。誰の発言かは、苗字で書いた。

ただ最後の備考欄に、私はひとこと、こう書き加えるかどうか、長く迷った。

「紛失したカートにつき、最後の使用者として防犯カメラに記録あり」

書いてしまえば、議事録は、ある一人の人間を名指しすることになる。書かなければ、四度目の灰色の決まり方が、また一段、層を増やすだけになる。

私は、書いた。

書いてから、議事録の隅に、自分の名前と、日付を入れた。記録する人間の名前は、こういうときのためにある。間違っていれば、誰が間違ったかが残るし、間違っていなければ、誰が見ていたかが残る。

翌朝、管理会社の山岡さんに、議事録のコピーを渡した。山岡さんは、ざっと目を通して、最後の備考欄のところで、一度だけ、目を上げた。何も言わなかった。私も何も言わなかった。

私はその朝、自分の家のドアを閉めるとき、ふだんより、すこし丁寧に、鍵を回した。鍵がきちんと回るかどうか、私はちゃんと、確かめた。